HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
横浜市長選挙 | - 2021/08/23
- 22日の日曜日、わが横浜市の市長選挙があった。
あまり燃えるものではないが、仕方なく出かけた。
野党系の山中竹春氏が当選。 現職の林文子は前回選挙でカジノ建設はしないと公約しながら、受かった途端にカジノ建設をぶち上げたのが不評で選挙前から駄目だと言われた通りの状況であった。 自民党の小此木氏はカジノ賛成から立候補にあたり誘致取止めを掲げたが嘘っぽさが浮き出たようで、落選。 山中氏はコロナの専門家というキャッチが大きかったのか、圧倒的な支持を集めた。 どうでも良い立候補者に作家で前長野県知事の田中康夫がいたが、市長選挙区賑わいで盛り上げた程度。 しかし、これらの票は本来、確実にコロナ専門家と言われる候補に流れるのは必至であり、国政の選挙、自民党には今後の政権運営に大きな打撃となった。
いや、今回の選挙は面白かった。
前日に青葉台駅近くで配っていた団扇のようで団扇でない、チラシのようだが、候補者の山中氏の名前がないので、なぜかと尋ねると、これに名前を入れると違反です、だと。 しかし、コロナ専門家、医学部教授という肩書は大きな武器だった、と思うのである。それが見抜けなかった自民党の昔の軍部のような勝手に安泰の「読み」をしているようでは これから先は無いなあ。
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八月と言えば戦争。 | - 2021/08/20
- NHKでは盛んに先の大戦の批判を繰り返し放映している。
もう言い尽くされた戦争批判も底をついたか、最近は銃後の守りの批判も出てきた。 今まで女は被害者と一辺倒だったのだが、女による戦争遂行の恐怖も少しずつ出始めた。 あくまで被害者としての立場を守っているものの、当時の話を聞いているだけで、いかに女が戦争協力者であったかすぐにピンとくるのである。 私は子供時代、戦争の話を聞くのが好きで、戦争に行った人や近所のおばさん達から、何度も話をせがんで聞かせてもらった、だから自分が経験したようによく解る。 実は、銃後の守りほど怖いものはなく、地域社会において戦争協力しない者は居場所がなく、出征するのも当然のように収容所に送り出される如く 駆り出されて行った。
主婦たちの賛成を得た軍隊は当時完璧な神聖な状態に置かれた。 兵隊は階級に応じ天皇に続く神様としてやりたい放題だった。 軍隊は国民を守るたに存在するはずが、国民が軍隊を守る状態になった。 沖縄で市民が兵隊に殺され、盾にされた、満州では兵隊が先に逃げ市民が置き去りにされた。もっと小さな一例、電車に乗れば病人も兵隊さんの為に席を譲った、それが当然になり「どけ」と怒鳴られるようになった。
「銃後の守り」「国防婦人会」というスローガンと組織により、日本社会は硬直化して行き、さらに秘密警察の特高や いや普通の警官でさえ、上から神の名の元に、つまらぬ理由でも半殺しの目にあい、完璧に自由は奪われがんじがらめになった。 「進め一億火の玉だ」とか「一億玉砕」というスローガンが掲げられた。 「一億玉砕」などという恐ろしいスローガンは、昭和19年に当時の海軍大将、岡田啓介が発した言葉から来ているのだが、その本人は極東裁判で戦争反対論者とされていて罰を受けなかったらしい。だが、当時彼は、日本社会における戦争協力を強制するリーダーとしての発言である。 こうして考えてみると、解らないものである。
テレビで被害者面しているおばさんたちは、よくも上手い事をしゃべるものだと感心してしまうのである。
世の中、いつでも言った者勝ちである。 しかし、その時は、良い事を言っているような気がするのだから、解らないんだよな...。
しかし、何より、戦争責任を問わない限り、日本の戦争は終わらないのである。すなわち昭和天皇と東條の責任、パールハーバーとミッドウェーの山本五十六の責任、ノモンハンの辻少佐、インパール作戦の牟田口、レイテ海戦の栗田、沖縄戦の牛島、特攻作戦を企画した悪魔たち、といった軍人たちの責任を追及し、戦争を煽った警察や秘密警察、マスコミにも扇動した罪があり、今更懲罰を科す事が出来ない事は言うまでもないが、責任者として能力が無かった、または意志があった事の名前を明らかにし、死んだ者でも名誉剥奪くらいしないと、戦争反省もないのである。戦争するという事はそういう覚悟である。
一億総懺悔はあまりに無責任。
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最近で最も残念な事件 | - 2021/08/19
- 千葉県柏市で、コロナウイルスに初期感染した30歳代の妊婦が、入院先が見つからずに17日に自宅で早産し、新生児が死亡していた事件。
いやはや、何とも切ない事件、絶対あってはならない事件。 乳児を殺してしまった、保健所、柏市・千葉県の責任は大変重い。 市民を上から目線で見ているからこういう事件が起きた。 私は、非常にショックであった。
これほど保健所が無神経で、千葉県が無知で、国が無能だと思わなかったよ。
税金で高い給料を取っている人たちだ、きっと、いざという時は、ここぞという時には力を発揮すると思っていた。 そしたら簡単に赤ちゃんを死なせていたとは、トホホな情けない人達だ。 千葉県だけではない、これからあちこちでこんな事件が起きるかもしれない。
本当に日本は終わった。
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シティーポップのブーム | - 2021/08/18
- 友人が来て言うには、若者のシティー・ポップ・ブームはハルズレコードから始まったと言うのが定説だと。嬉しいねえ!!
「最近のシティー・ポップ・ブームと言うのは、YOUは何しに日本へ!というTV番組において、新宿のジャズのレコード屋で大貫妙子のレコードが見つかった事から始まった、と言って良い。」と評論家の先生がラジオで言っていたぞ、と。
確かに、シティーポップは山下達郎人気などあってジワジワと来ていたのだが、急激な上昇が見られる人気は、私がYOUの番組に出たあの事件の後から、正に爆発だったように感じる。 ついこの間も、初めて来た客の様子がどうもおかしいので「うちはジャズのレコードしかありませんよ」と声を掛けると、「そうなんですね、日本のレコードは無いんですね」とがっかりしてお帰りになった。 ウチに来れば日本のポップスのレコードが買えると思っていたらしい。 我が店も罪なことをしたものだ。
営業的には我が店にはほとんど影響も無かったのだが、HMVなど大貫妙子の版権を持っていたらしく、既に5回以上も例のレコードを再発したようで、それは儲かったことであろう。 それがウチには全く何の恩恵も無い所が、なんとも可笑しい。 いや、だからそれ故に、余計に誇らしい。
ジャズの店からシティポップのリバイバルの起爆点だったとは。何しろWikipediaにも話が出てくるから。 面白いね。
三回目のあの番組の撮影の時、 マーヴィン・ゲイ の「ホワッツ・ゴーイン・オン」とコード進行が同じだと、リモートの画面の向こう側でスティーブさんがギターを弾きながら歌ってくれ、それが徐々に「くすりをたくさん」に歌と演奏が移って行ったのは感心してしまった。
それが放映されないのが残念だった。
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最近の日記 | - 2021/08/17
- ちょっと我が日記を見直してみると、もう人生が終わりに差しかったような塩梅である。
枯れたと言いばまだ良いが、既に終わりに掛かっている。
時代劇の「三屋清左衛門残日録」ではないが、「日残りて昏るるに未だ遠し」という感じか。 と言う事は、人生終わりに未だ遠いという事か。 残念じゃ。
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外出禁止で思う事 | - 2021/08/14
- オリンピック期間中、コロナ感染者数が4000人を超えた。
政府は焦って、またまた国民に外出禁止令という自粛を指示。 しかし、もう無理ではないか?
そもそも、普段の生活においても、東京などかなりの人々の住宅事情は決して余裕があるものではなく、かなり狭小なアパート・マンションに住んでいるのが実態である、 以前、休日の過ごし方について数人と話した事があるが、皆いう事は、日曜日など一日中、部屋にいられない。 部屋が狭いので、イライラして、どうしても出かけてしまい映画を見たり、盛り場など歩いたりしてしまうと。友人を誘って飲んだりする、と。 それが生活の実態なのである。
それを無視して、外出禁止はとても国民の気持ちに寄り添った物ではない。 尾身という方も、上目線で外出を控えろというのはいかにも酷い事を国民に強いている事を理解するべきだ。 人の孤独感を考えもしない政府はあまりに惨い。 自粛も初期の内はまだしも、すでに1年半経過、部屋にいろと言われても無理というものである。
更に政府はオリンピックというイベントを行ったわけだが、都民だって自分のイベントをやっても良いのではないか、という結論に至ったのも不思議ではない。 政府は良いけど、都民はダメはちょっとね。 酒も禁止され、どこで息を抜けというのが。 私だって、徐々に投げやりになってくる。
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今日は休みだが..... | - 2021/08/11
- 今日の朝食の際、ふと思い出して「今日は、僕は休みだからね」。
と言ったところ、家内が泣き出して、「なんで、今日は私はやりたい事があったのに、何で休むのよ」だと。
仕方ないので、まあ程々に謝った。 家内も日本の主婦で、亭主元気で留守が良い、という事を考えていたんだね。 私もピンピンコロリを目指さないといけない。
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雲 | - 2021/08/10
- 夏は見通しの良い高速道路を走ると気持ちが良い。
目の前の、遠くの青い空にぽっと浮かぶ雲を見るのが、何とも気持ちが良い。
今朝は、雲がやや多めだったのだが、なんと丸い穴の開いた雲があった。 周囲はやや厚めに雲があって、まるでドーナツのようであった。
写真ではちょっと表現が難しかったが、ドーナツを斜めにしたような感じで、なかなかであった。
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家のカエル君 | - 2021/08/08
- 朝、猫を抱いて外に出て見ると、門の外でカエルが車に轢かれて死んでいた。多分、我が家に住み着いたカエルであった。
夜、大雨が降ったので、つい道路に飛び出したものと思われる。
数か月前から玄関脇に住み着いているカエル君は、いつも植木鉢の辺りに2匹いたのだが、今朝からは一人ボッチになってしまった。
家内が死んだカエルをどうしようかと言っているので、私は「ほっといて良い、その内にカラスが来て、後片付けをしてくれる、ここでもチベットと同じで鳥葬だから」と言ったものの、30分後に見に行ったら、ちょうどカラスが咥えて電柱に舞い上がった所であった。
チリ取りに掃いて捨てる等という野蛮な事をしなくて済んだ。 これこそ自然の葬儀、有難い事であった。
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広島 原爆投下された日 | - 2021/08/06
- 義父、唐沢勲が原爆に遭った事は以前、日記に書いたが、どうもはっきりしないところがあり、これは何とかならないかと思っていた所、義父が書いた記録が見つかったので、記しておこうと思う。
私は昭和19年7月、広島鉄道局、総務部長として赴任した。 昭和20年に入り戦況は益々悪化し、物資はいよいよ欠乏してきた。防火訓練、学徒動員が行われ婦人・子供の強制疎開が始まり、私も家内と3人の子供を中国山地の大朝部落の民家に疎開させ、自分ひとりで守衛夫妻の世話になることになった。 空襲は日増しに激しくなり、呉の軍港施設が艦載機の波状攻撃を受ける様子を宇品の防空壕の入り口に立ってまざまざと遠望しながら、いつこちらが空襲の目標になるのかと暗然たる事もあった。 戦況は明らかに悪く見え、どんな形に敗戦が展開していくか見当もつかないが覚悟はした。
8月6日は朝から晴れ上がり、暑い一日は始まろうとしていた。 いつもなら宇品へ向かって登庁する8時だが、その日、駅に会議があり私は白島の官舎の縁側で、ワイシャツ姿でその日の資料に目を通していた。 その時、空襲警報ではなく警戒警報がなり.敵機が一機空中を旋回していると報じていたが、間もなくその警報も解除になった。 そしてその解除の直後、空中にピカッと稲妻の如き閃光を感じ、次の瞬間、砂を左顔面に打ちつけられたような刺激を感じた。 ガラガラと物の崩れる音と同時にあたりが急に暗くなった。 私は思わずその場に身を伏せた。 だが何事も続いて起きない様子なので急ぎ庭に走り出て防空壕に飛び込んだ。 壕の中でぢっと耳を澄ませていたが外は静まり返って物音ひとつしない。 そのうち「部長さーん」と私を呼ぶ守衛の声がかすかに聞こえたので壕から出て、裏木戸を開き通りへ出た。 そこに官舎の同僚やその家族が「どうしたのでしょう」「怪我はありませんか」と続々集まってきた。 互いに家の破壊状況や怪我の有無を確かめあった。どこの家もつぶれてはいないようだが、戸障子は吹っ飛び畳、床は滅茶滅茶に破壊されていた。多くのひとが手足に、顔に怪我をし血をしたたらせている。私は左顔面が火傷しているという。裸足で硝子を踏んだと見え、足の裏が相当大きく口を開けている。 管理部長の磯崎君は顔、首あたり相当硝子を叩きつけられたらしく、血に染まっている。 元気そうな者をあちこち情報集めに出したが、「橋が落ちて駅へは連絡が取れない」「火災があちこちに起きて、どんどん広がりつつある」と言う報告が返ってくる。 評定の結果、私と大森施設部長は可部線の可部駅まで徒歩で行き、そこで情報を集め連絡を計る。 管理部長の磯崎君は官舎の全員を引率し、予め避難場所と指定されている学校に向かういうことになった。 脚を打撲して杖にすがる大森君と、足の裏に怪我をしてこれまた杖に頼る自分と二人、夢中で可部駅を急いだ。途中、半裸で火傷をしている兵士や、荷物を背負い、手足を血に染めた人々が何かわめきながら慌しく行き来していた。
可部駅は健在で宇品との連絡も取れ、傷の応急手当も受けることが出来た。 宇品の局も破壊され広島駅、鉄道病院、その他多数の鉄道施設、官舎も焼失している。仕事はまず生存職員の点検から始めねばならない有様である。私は白島の官舎が焼失したので、焼け残った甲斐の人事課長の宅に身を寄せ、そこから広島駅構内の客車の中に移動した局に出勤した。 顔左半分と左手を火傷して右足裏裂傷というので病人扱いになり、周囲のいう事を聞き、夕方は早く切り上げ宿舎に引き上げ静養に努めた。 「駅長さん帰って休んでください」と声をかけられるのだが、職員が管理局の部長以上を面倒がって駅長と呼ぶ。 そんな中、長崎の被爆を聞いた。 それらが原爆とは後になって教えられた事で、当時は誰に聞いても正体は分からなかった。 友人の商工省から中国総監部へ来ていた並木君の如きは、当日は何の被害もなく元気に任せて市中を飛び歩き大活躍をしたため、数日後から原爆症を起こし、髪の毛が抜け始め、白血球が激減し遂に不帰の身となった。 当日に元気で活躍した若者は皆同様の目に遭ってしまった。
10月になり原爆の洗礼を受けた我々は後退した方がよかろうということになり、局長の満尾氏をはじめ広島の地を離れることになり、私は新橋鉄道管理部長として東京へ戻った。 その後、火傷も順調に治り色もなくなった、酒を飲むとぽーっと色が黒くなるので原爆記念だと威張っていた。
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