広島 原爆投下された日 | - 2021/08/06
- 義父、唐沢勲が原爆に遭った事は以前、日記に書いたが、どうもはっきりしないところがあり、これは何とかならないかと思っていた所、義父が書いた記録が見つかったので、記しておこうと思う。
私は昭和19年7月、広島鉄道局、総務部長として赴任した。 昭和20年に入り戦況は益々悪化し、物資はいよいよ欠乏してきた。防火訓練、学徒動員が行われ婦人・子供の強制疎開が始まり、私も家内と3人の子供を中国山地の大朝部落の民家に疎開させ、自分ひとりで守衛夫妻の世話になることになった。 空襲は日増しに激しくなり、呉の軍港施設が艦載機の波状攻撃を受ける様子を宇品の防空壕の入り口に立ってまざまざと遠望しながら、いつこちらが空襲の目標になるのかと暗然たる事もあった。 戦況は明らかに悪く見え、どんな形に敗戦が展開していくか見当もつかないが覚悟はした。
8月6日は朝から晴れ上がり、暑い一日は始まろうとしていた。 いつもなら宇品へ向かって登庁する8時だが、その日、駅に会議があり私は白島の官舎の縁側で、ワイシャツ姿でその日の資料に目を通していた。 その時、空襲警報ではなく警戒警報がなり.敵機が一機空中を旋回していると報じていたが、間もなくその警報も解除になった。 そしてその解除の直後、空中にピカッと稲妻の如き閃光を感じ、次の瞬間、砂を左顔面に打ちつけられたような刺激を感じた。 ガラガラと物の崩れる音と同時にあたりが急に暗くなった。 私は思わずその場に身を伏せた。 だが何事も続いて起きない様子なので急ぎ庭に走り出て防空壕に飛び込んだ。 壕の中でぢっと耳を澄ませていたが外は静まり返って物音ひとつしない。 そのうち「部長さーん」と私を呼ぶ守衛の声がかすかに聞こえたので壕から出て、裏木戸を開き通りへ出た。 そこに官舎の同僚やその家族が「どうしたのでしょう」「怪我はありませんか」と続々集まってきた。 互いに家の破壊状況や怪我の有無を確かめあった。どこの家もつぶれてはいないようだが、戸障子は吹っ飛び畳、床は滅茶滅茶に破壊されていた。多くのひとが手足に、顔に怪我をし血をしたたらせている。私は左顔面が火傷しているという。裸足で硝子を踏んだと見え、足の裏が相当大きく口を開けている。 管理部長の磯崎君は顔、首あたり相当硝子を叩きつけられたらしく、血に染まっている。 元気そうな者をあちこち情報集めに出したが、「橋が落ちて駅へは連絡が取れない」「火災があちこちに起きて、どんどん広がりつつある」と言う報告が返ってくる。 評定の結果、私と大森施設部長は可部線の可部駅まで徒歩で行き、そこで情報を集め連絡を計る。 管理部長の磯崎君は官舎の全員を引率し、予め避難場所と指定されている学校に向かういうことになった。 脚を打撲して杖にすがる大森君と、足の裏に怪我をしてこれまた杖に頼る自分と二人、夢中で可部駅を急いだ。途中、半裸で火傷をしている兵士や、荷物を背負い、手足を血に染めた人々が何かわめきながら慌しく行き来していた。
可部駅は健在で宇品との連絡も取れ、傷の応急手当も受けることが出来た。 宇品の局も破壊され広島駅、鉄道病院、その他多数の鉄道施設、官舎も焼失している。仕事はまず生存職員の点検から始めねばならない有様である。私は白島の官舎が焼失したので、焼け残った甲斐の人事課長の宅に身を寄せ、そこから広島駅構内の客車の中に移動した局に出勤した。 顔左半分と左手を火傷して右足裏裂傷というので病人扱いになり、周囲のいう事を聞き、夕方は早く切り上げ宿舎に引き上げ静養に努めた。 「駅長さん帰って休んでください」と声をかけられるのだが、職員が管理局の部長以上を面倒がって駅長と呼ぶ。 そんな中、長崎の被爆を聞いた。 それらが原爆とは後になって教えられた事で、当時は誰に聞いても正体は分からなかった。 友人の商工省から中国総監部へ来ていた並木君の如きは、当日は何の被害もなく元気に任せて市中を飛び歩き大活躍をしたため、数日後から原爆症を起こし、髪の毛が抜け始め、白血球が激減し遂に不帰の身となった。 当日に元気で活躍した若者は皆同様の目に遭ってしまった。
10月になり原爆の洗礼を受けた我々は後退した方がよかろうということになり、局長の満尾氏をはじめ広島の地を離れることになり、私は新橋鉄道管理部長として東京へ戻った。 その後、火傷も順調に治り色もなくなった、酒を飲むとぽーっと色が黒くなるので原爆記念だと威張っていた。
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