HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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DON RENDELL “DUSK FIRE”
2024/06/28

DON RENDELL “DUSK FIRE” COLUMBIA SX 6064 (UK)

これは珍しい。
Ian Carr(イアン・カー)と双頭コンボで作り上げた、ピアノにMichael Garrick(マイケル・ガーリック)が参加し、
欧州ジャズの最高傑作と呼ばれている。
夕日のジャケット写真も素敵で、傑作アルバムの一つの要因にもなっている。
というものの、彼のアルバムはどれも一級品で長い間、よくも英国の頂点に留まっていられたものだと感心してしまう。
彼の音楽の経歴だけでも興味深く、ビリーホリデーの欧州ツアーで共演した。スタン・ケントン楽団でも演奏し、ウッディ・ハーマン楽団でも演奏した。
作品は1955年には、Meet Don Rendell (Tempo)、64年にはイアン・カーと共にShades of Blue (Columbia)、
66年に当Dusk Fireを、68年にPhase III、69年にはChange Is、等々、この後も傑作をこれでもかと発表していくのである。
その才能を本国ではイギリスのマイルスと言われたほどの賛美であった。
その後は、レンデル・カー・クインテットは解散し、なんとプログレッシブに進んでしまい「ニュークリアス」を結成し、今度はロック・ファンの英雄的存在に成って行く。
その進化のスピードはあの変化の多かった、60―70年代に於て群を抜いていて、しかも、どの作品も今尚、評価が高く駄作の無い事も、不思議なほどの才能である。

その彼の、音楽人生の中央に位置し、燦然と輝く作品がこのダスク・ファイアーなのである。
ライナーの中で、イアン・カーはその録音について、「我々はほとんど一発目の演奏で満足し、時に2回演奏しましたが、それも最初の録音を取りました」と述べている。すなわち彼らが既成概念と即興演奏の絶妙なバランスを獲得しており、テクニックでも音楽理念においてもジャズの概念にいささかも狂いを生じていないという見事な演奏家が揃っていたと言う事でもある。
60年代、アメリカのジャズも試行錯誤していた時に、イギリスの彼らは、インテリジェンスの高い既に先を見据えていたと言う凄い作品になったのである。

世界にはこういう凄い人達もいたんだね。

電気自動車は夢の自動車か
2024/06/27

ここの所、電気自動車も結構な数、走っているのを見かける。
着実に台数を伸ばしているのであろうか?

知合いに聞いたところ、あまり乗らない人なら電気自動車は割高になるという。
乗っても乗らなくても、時間が経つとバッテリーに寿命が来るのだが、このバッテリーの価格が非常に高い上、処分費用もという事になり、もう二度と電気自動車には乗るつもりは無いとの事であった。
そんなものかと思った。

また、今年の冬にはアメリカ・欧州で非常に寒い日が続き、バッテリー上がりに見舞われ、ギブアップしてしまったニュースも見た。
これについては、さもありなんと言う所で、バッテリーの特徴は日ごろ熟知しているので、納得できた。
真冬には東京でもちょっと油断しているとバッテリーが上がってしまう、ひと月乗らない時は、日ごろから充電器をつないで置かないといけない。

そもそも、日本中が電気自動車になってしまったら、電気の供給をどうするのか?
太陽光など問題外、水力、火力などでは追い付かず、必ず原子力発電を稼働しないと追いつかない。
原発反対等と寝言を言っている場合ではない。
もう一つ、失業するであろう自動車業界の社員、何百万人の行方をいかんとする。

エライ問題なのである。

ダンボール
2024/06/26

以前、買い付けの出張で外国に行った時、ダンボール箱を常に探していた。
何箱も必要なので、基本的に現地調達なのだが、さて、英語でダンボールを何と言うか?
また、次に必要なガム・テープを何と言うか?

しばらく、単にボックスとかテープとか言っていたのだが、困る事もあった。
それで、次に行くときに覚えて行こうと思いながら、案の定、しっかり忘れていて、また苦労するのであった。

其の内に、調べて分かったのだ。
ダンボールは英語でCardboard(カードボード)もしくはcorrugated board(コルゲイテット・ボード)と言う。

ガムテープはduct tape(ダクト・テープ)と言う。

では、なぜダンボールになったのかと言うと、確証はないが、段々になったボールだという事らしい。
ガムテープは食べるガムのような粘る物としてガムにしたようである。
一度、外人にガムテープと言ったら、分かってくれたことがあったから満更嘘でもなさそうだ。

急に 変んな事を思い出したものだ。

スター
2024/06/25

綾瀬はるかは大スターで一度も苦労なんかしたことなどなかろう、と思っていたら、広島の友人が、「彼女もデビュー後は苦労したんですよ、あだ名がおっぱい姉ちゃん等と言われたりして、それなりに人気でしたけど」という事である。彼女が広島出身だけに詳しい。
芸人はみな、それなりに苦労するんだね。

ジャズ・ボーカルのスター達もみな夫々、苦労を伴う歩みがあったのである。
ペギー・リーはベニー・グッドマンの所で、ジョー・スタッフォードはトミー・ドーシー楽団で、サラ・ボーンはアール・ハインズの所で、エラ・フィッツジェラルドはチック・ウエッブ楽団で、ドリス・デイはレス・ブラウン楽団で、ダイナ・ワシントンはライオネル・ハンプトン楽団で泣きながら一流になっていった。
スタン・ケントン楽団にはアニタ・オディやジューン・クリスティにクリス・コナーという花形を次々と抱えた。
楽団の中では、あらゆるいじめに堪え、舞台では刺身の褄の扱いにも耐え、徐々に実力を蓄えて登って行くのであった。
フランク・シナトラなどはトミー・ドーシーから独立する際、今後の収入の三分の一をドーシーに、また収入の1割をドーシーのマネージャーに支払う法外な契約をさせられたのである。
だがシナトラは別れる方を選択したのである。
まあ、ドーシーは悪い事は悪いのだが、それだけ実力を解っていたということでもある。

ジャズを聴くことは、ジャズを通して人生を学ぶこと。
そうすると余計に楽しくなる。

Bistro
2024/06/24

先日、オードリー・モリスのレコードでタイトルにBistroという言葉が出てきて、ビストロという店とはどういうものかとイメージが湧かなくて、どうも困ってしまった。
いや、何となくはわかると思うのだが、さてどう説明するのか、と思ってしまった。

それで、本を読んでいたら、ロンドンのPub(パブ)、ニューヨークのSaloon(サルーン)、パリのBistro(ビストロ)が同じような雰囲気だと書いてあった。
ウイーンのカフェも同じような雰囲気だったとか。

なんだか、ちょっと西洋文化には憧れてしまうなあ。
だからと言う訳ではないが、やっぱりジャズが好きになってしまった人生だもの。

通販リスト更新
2024/06/24

明日 25日 通販リストの更新をいたします。
よろしくお願いいたします

ヤマトさん
2024/06/22

暫く前の話。

夕方、荷物の発送の必要が生じて、ヤマトの営業所へ走っていった所、営業所が消えていた。
それで、ヤマトのお兄さんに確認したら、この辺りの営業所はほとんど閉めてしまったという事であった。

それ以来、ヤマトの配送のクルマは駐車場に入れて、そこから台車で配送している。
雨の日や、暑い日は、とても大変そうである。

佐川急便は、営業所など以前のまま存在しているのに、ヤマトだけが衰退しているようで、なんだかなあ、と心配してしまった。

SPレコードの事
2024/06/21

ちょっと面白い話を見つけた。

戦時中40年〜46年の間、レコードの主要原料であるシェラックの供給源を日本が握っていた。
そのために世界的にシェラックが不足していて、アメリカでも混ぜ物が増えボール紙等も使用され、非常に品質が悪くなった。
従って非常に壊れやすくなった。
混ぜ物が表面に現れるレコードにも遭遇した、という事である。

こう考えると、シェラックの原産はインドや南アジアと聞いていたので、成程と言う感じになる。
だがシェラックは日本軍が確保したのであろうが、国内の物資が少ない故にレコード盤以外に使用されてしまったようだ。
或いは、現地で敵国に横流しされたかもしれない。

アメリカが戦時中、シェラック・レコードが壊れやすいので、ビニール・レコードの製造に切り替えて行ったのには、こういう理由も一つあったのであろうか。
腑に落ちる話でもある。

それで、注意があって、こういうシェラック・レコードは軽く掃除する以外は決して濡らさないようにしよう。という事である。
また、SPレコードは最後までRIAAカーブにはならなかったという事である。

ラプソディー・イン・ブルー
2024/06/20

ジャズっぽい名前の曲で、「ラプソディー・イン・ブルー」という曲がある。
作曲者は幾多のジャズ・ボーカルのスタンダードとなった名曲を世に送ったジョージ・ガーシュウィンで1924年の事である。
「ラプソディ・イン・ブルー」はジャズとクラシックを融合したシンフォニック・ジャズと、どの本でも、ネットの中にも、そう書かれている。

以来、クラシック音楽の世界において、定番となり、これでもかと言うほどたくさんの楽譜が売られている。
もちろんクラシック・ファンにも好まれ、よく聴かれるようである。
しかし、ガーシュインの作曲にもかかわらず、ジャズ・ファンはというと、まず聴く人がいない。
いや、ジャズのマニアと自認する人は全くといって良い程 聴く事がない。
ある意味、毛嫌いされているとも言える。

昔、ジャズ仲間の一人が言った、「ジャズをちょっと取り入れたので、ジャズを聴かない上流の人達が、さも理解がありそうな感じで、満足そうに聴き入っている姿が想像できるのが許せん」。
要するにジャズという言葉を入れるなと言う事であった。
かく言う私も、好んで聴く事はない。

ジャズ・ファンが聴かない、ジャズの名曲。不思議な曲である。

Teddi King "Miss Teddi King"
2024/06/17

Teddi King “Storyville Presents Miss Teddi King” Storyville LP314 (USA)

黄色地に黒の点描画のような女性の横顔が印象的なジャケ写である。
その製作意図は分からないが、ある意味印象的で妙に気になるデザインでもある。

1955年の10インチ・アルバムで、裏のライナーを読んでみると、こんな事が書かれてある。
「歌手が成長するための方法で一番は、優れたミュージシャンとの交流である事は間違い事実である。この点において彼女は短いキャリアの中でも非常に幸運であった。ジョージ・シアリングは最初にテディに彼の最大の才能の恩恵を与えた。ボストンで無名だった彼女を見出し、国内有数のジャズグループの一員に加えた。彼女の音楽的才能と素晴らしい音感の組合せで完璧主義のシアリングと共に理想的なボーカリストとなった。」と。
きっと、その通りであろう。英文のライナーは読むと良い事があるなあ。

ストリービル・レーベルにおいて2枚目のアルバムであるが、Jimmy Jones(ピアノ)、Jo Jones(ドラム)、Milt Hinton(ベース)のトリオはボーカルに取って完璧で、そこにトランペットのRuby Braff(ルビー・ブラフ)がムード一杯の音色で陰影を付けると、そこには風情あるボーカル・アルバムのパラダイスが産まれるのである。

彼女の声は、女性らしい大人しめで優しい、言い含めるような歌は聴くと自然に聞き入ってしまう。そんな感じは、きっとジョージ・シアリングの教育であろうか。聴いていて、実に好ましいのである。

その後彼女は、トントン拍子にRCAに移り小ヒットもあり、意外に作品数は多い。
廃盤としての人気は初期のStoryvilleレーベルの3枚が圧倒的であるが、いつの時代もそれなりに充実している。
仕事にも恵まれていたようだが、1977年SLE(全身性エリテマトーデス)という難病で48才で亡くなっている。

好事魔が多しとでも言おうか、残念な事であった。

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