HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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J R MONTEROSE “ THE MESSAGE”
2018/10/12

J R MONTEROSE “ THE MESSAGE” JARO JAM 5004 (USA)

ジャケット写真を見ていると、彼のこめかみの辺りの滲んだ汗が光って、それがオリジナルのコーティング・ジャケットの艶と相俟って、更に、彼の角刈り頭で何とも言えない風格になった。
かつてアメリカから届いたオリジナル盤を眺めながら、何度も何度も感動したものである。

しかし、JARO(Jaro International)とはまた厄介なレーベルである。
なんでも英国「TOP RANK」の傍系で1959年から1960年の間だけ、レーベル活動したようだが、全部で8枚しかリリースはなく、大体はエキゾチックな音楽を売り物にしたのでろうか。
しかし、ジャズに関してはKENNY DORHAMのこれまたレア物が一枚あり、これらジャズの2枚はなんといっても幻の名盤の中でも、更に「超」の付く幻であるのは不思議である。

また、彼のアルバムはどれも幻の名盤のトップ・クラスの作品ばかりで、56年のJ R Monterose(BlueNote 1536), 64年のIn Action(Studio 4)そしてこの作品の3枚とも風格のある作品で、再発盤、日本盤やCDはいっぱい出てくるが、オリジナルとなると どれも大変な入手困難なものである。

さてJRさんであるが、本名、Frank Anthony Peter Vincent Monterose Jrという、長すぎる名前を端折ってというか端折りすぎて、J R Monteroseとした。なんだかJとRを離すかくっつけるか妙に気になって書きにくい、ヘンなネーミングである。音楽もなかなかの立派な人達と仕事をした割には、その後本道の人とはなっていないようで、どうもへそ曲がりであったか、または、それほど運が巡って来なかったのか、と考えられるのだが、どうも作品の出し方などを考えると、これは本人の性格が音楽人生をそうさせたのかと思える。
したがって、米国のみならず、ヨーロッパでもクラブなどでちょこちょこ仕事をしていた。
クラブなどの狭い場所での演奏が好きだったのではないか。

当アルバムの大きな特徴であるが、まず大名演奏が2曲あるのだが、これが並外れて凄いこと。
A面の Violets For Your Furs
B面の I Remember Clifford
見事な情緒のバラード・プレイで、スミレの方は、コルトレーンの方かこちらか、人気が二分されたほどであった。
クリフォードの方は、トランペットでなくサックスでのプレイとして人気になったものである。
その他の曲は、コルトレーンやロリンズの影響下にあることがはっきりとしており、曲により音質までコルトレーンに近かったり、ロリンズに近かったりするところがあっったり、ロリンズに影響されたコルトレーンに似ていたりして、中々面白い。
それにちょっと本人の面白いニュアンスのサウンドなんだよなあ。

何年たっても、どうしても欲しい一枚だな。

ハルズ散歩の続きというか...
2018/10/09

昨日のハルズ散歩の続きというか町田の話で.
旧国鉄(JR)の原町田駅辺りを歩いていた時、友人がに急に「ここ、ここ、ここに昔米軍機が墜落したんだよ」って。
「えっ、町田にも墜落したのか?」。
なぜなら、我が家の比較的近所も相当数の米軍機が墜落しているのだが、昭和52年の江田の母親と3歳・1歳の坊やの三人が亡くなった墜落は、涙を誘う悲しい話で、地元だけに関係者が知り合いに居たりして、今なお、時々会話に出てくる。
何しろ坊やふたりは墜落翌日に大火傷により亡くなったのだが、母親には治療の妨げになると、死が知らされる事無く、我が子に会いたい一心で苦しい治療に堪えにも拘らず結局4年後に母親もあの世に旅立ったという悲しい結末であった。
たしかドラマにもなったんだよな。
モトエ。

町田の墜落は知らなかった。友人の話で悲惨さは聞いたのだが、さて日記に書こうとすると詳細が必要なので町田のホームページで探して話を加減した。
ゴメン。
昭和39年、横浜線旧原町田駅から300メートルの商店街に米軍機クルセイダーが故障によりきりもみ状態で墜落。
ちょうど桜の花も咲こうとする日曜日、客で混雑していた商店街に大地も裂けよとばかりに米軍機が墜落。一瞬の内に4棟が吹き飛び、機体の破片・土砂が半径50メートルの範囲で襲い20数軒の家屋を全半壊、死者4名、重軽傷者32名という惨事になったという。友人は高校を卒業したばかりなのか良く覚えていた。

街のど真ん中に墜落するのも凄いなあ。

それで、さて横浜においてどの程度の米軍機事故があったかという事に興味が湧いて来てしまい、今度は神奈川県のホームページから引用する。昭和27年から平成19年までのデータながら全214件。
墜落62件、不時着54件。被害の大きな事故は37件。
数が多いなあ沖縄だけじゃないだろう。
横浜だって負けてないぞ!
沖縄は被害者、被害者と騒ぐけど、俺たちは騒いでないもんね。

威張ってどうする。ハイ

暇で町田あたりに.....
2018/10/08

今日は病院に行ってから仕事に参る予定であった。
だが、仕入部長からメールで、手伝いが来ることになったから、出社に及ばずという事になった。
ないがしろにされた訳。マア、イイカ。

こういう時に限って、いつも時間の掛かる病院の待ち時間も、予定より早く呼び出しがかかり、あっという間に治療も済む。
予定になく暇だがね。
そういう時の友達、近所のジイジを呼び出し、近くの小田急線の鶴川という所にコーヒー専門店があるからと、二人で車で出かける。
二人の考えている道順の好みが結構違っている事に驚きながら、ともかく到着。
そうしたら、なんと火・水は休みだと。
面目立たず。

それで、町田にでも行こうかという話になり、目標設定変更。
駅近くに駐車し、昔の町田と大いに変わってしまっているので、ここは何があったの、なかったの、進駐軍の飛行機墜落現場まで見に行ったりして、大いに盛り上がる。

結局まあ、私もそれほど街情報に詳しくはないので、先日行ったジャズ喫茶「ノイズ」に行く。
ジョルナという若者しか入らない、いや、入れない雰囲気のショッピング・ビルにあるのだが、何しろここは、ピチピチしたギャルばかりで、オジサン目のやり場に困る。
いや、コマラナイ。

店は堅苦しくない店で良かったねと満足、二人でまったりとコーヒーを頂いて帰ってきた。
昔を偲ぶ街歩きが楽しかった。

ERIC DOLPHY “OUTWARD BOUND” ESQUIRE
2018/10/06

ERIC DOLPHY “OUTWARD BOUND” ESQUIRE 32-123 (UK)

エリック・ドルフィーのPrestige/NewJazzの名盤8236番の同一スタンパー仕様の英国プレスである。
盤に若干スレはあるものの、音質に影響は少ないので、安心できる。
ドルフィーのEsquireでの別ジャケ・アルバムは殆ど出てくることがなく、珍しい。
マニア必見のレア盤である。

このジャケットは何と言っても、文字と写真の組合せが素晴らしい。
オリジナル盤のシュールレアリズム初期の頃のような前衛絵画も悪くないが、英国盤の文字の組合せは粋である。
画面の上下一杯にはめ込んだドルフィーがフルートを吹いている写真もなかなかよろしい。
良いテイストである。

このアルバムは1960年4月本人名義で、彼らしい音楽が確立してからの、真っ直ぐな作品第一号である。
トランペットがFreddie Hubbard, という所も、新しい彼らの時代が押し寄せて来ているのが良く分かる。
Freddie Hubbard,とは後のOut to lunch(BlueNote)でも共演しており、ドルフィーに負けない音楽性を示した当たり、見事な大物感を感じさせるものである。
60年の次の作品は、6月にKen McIntyreとの共演があり、8月のカルテットのOut There(New Jazz 8252)となる。
12月にFar Cry(NewJazz8270),をリリースし、この辺りから怒涛の音楽活動が開始されるのであるがほとんどがミンガス、コルトレーンなど他人のお手伝いである。
リーダー作となると、61年7月のAt The Five Spot(NewJazz8260)の辺りであって、なぜか、あまりにリーダー作がすくない、ちゃんとしたレーベルといってもPrestigeになってしまうが、この2・3年がいずれも彼の代表作となっている。
そういう意味でも、大事な作品である。

BENNY BAILEY “QUINTET"
2018/10/05

BENNY BAILEY “QUINTET Feat BERNT ROSENGREN” SONET SXP 2515 (SWEDEN)
45回転 7インチ・レコード

今回の入荷は大変珍しいモノ盤のEPである。厳密にはEPでは無く7インチという、ヨーロッパのコレクターに言い直しをされる事も多々ある。
シングル盤では無い理由は、片面の演奏時間もかなり長く、アメリカにおけるシングル・カットとは異なるからで更にジャケットも付いているのである。
ヨーロッパのEP文化の面白いところである。ジャケットもコーティング剥がれもなく綺麗である。

さて、ベニー・ベイリーが1950年前後であると思われるが、ライオネル・ハンプトン楽団の一員としてヨーロッパツアーに参加し、楽団がスエーデンに行った際、彼は突如残留を決意。
以来、ヨーロッパにおけるビックバンドの重要なトランペットの地位を確立し、一時期のクインシー楽団、クラーク・ボランド楽団などで活躍したのである。
特記したいところはクインシーによる「Meets the benny Bailey」という曲まで頂戴したこと。
クインシーはスエーデンにおいて当時大人気であり、記者会見が行われ、記者からの質問でこの曲に触れベニー・ベイリーなどになぜ会わなければならないのか、とやや小馬鹿にした言い方をされ、君たちは何もわかっていないと席を蹴ったという話を現地で聴いた事があるほど、アメリカの才能が国外に出てしまう事を惜しんだ。一説によると恋に落ちたからだという話である。
また、当店の常連の中に、ファンがいて彼の調査によると、クラーク・ボランド楽団における膨大なコレクションの中でベニー・ベイリーは皆勤賞であるという事を発見した。
ただディスコグラフィーに一枚載っているが見つからないという話であったが、それは私が探したところ、番号も与えられ発売予定であったが、残念ながら発売に居たらなかった物であった。

という話は置いといて
このEPは彼がスエーデンにて録音を、56年からそれこそ毎年一枚づつ作ったものの一環である。
これは59年の傑作で、名手ベルント・ローゼングレンとの2管クインテットである。
なにしろ、A面のSonny Boyの出来が素晴らしい。ピーッとなる独特のサウンドが気持ち良い所にローゼングレンのテナーもバリッとして気持ちが良い、実にジャズらしい曲である。

ベニーベイリーは、BeBopからのジャズメンであるが、楽団の演奏が長いだけに、ある意味中間派でもあり、とても近代ジャズとも合うとは思えないが、その後のモードのプレイヤーとも十分に渡り合っており、なお素晴らしいプレイを見せているところが、私は甚く感心するのである。

ぜひ、チャンスがあったら、聴いて頂きたいと切にお願いする処である。

X JAPANのコンサート
2018/10/03

XJAPANのコンサートがあるからと我家に泊まる事になった、長男の嫁、北海道から来たその母親、和歌山から駆け付けた嫁の友達の3人。
我が家は合宿所となった。

台風襲来にもめげる事無く、気合十分の3人は、早くも昼から勇ましく雨対策もしっかりと会場のある幕張に出かけて行ったものの、あっけなくコンサート中止。主催者の根性なし。JRもだ。
台風があろうと地震があろうと、火の矢が飛んで来ようとも、X-JAPANと心中も覚悟で向かっただけに放り出された悲しさは言うにおよばず、打ちひしがれて、帰宅したところに、X-JAPANの動画配信サイトに「YOSHIKI CHANNEL」というのがあって、そこで、何と無観客ライブを行う事になったらしい。
X-JAPANも粋な事をするに〜。
それで、我が家はパソコンにスピーカーをつなぎ、長時間のライブ中継会場になっていたと言うわけ。
私も会場なる仲間に入り、ペンライトを持たされ、一緒に手を振ったのよ。
参加することの気分の良さ。
ペンライトも今回のみの物、昔のもの、Xと書かれた指輪型のライトなど小道具は事欠かない彼女たち。
いや、凄い事。
ファンってありがたいよね。

それでだ、ここからが本題なんだけど。
歌を聞いていたら、どこかで聞いた歌が。
思い出すとテレビのCMで「高畑充希」が大げさに歌っていた歌だがね。
ビックリしたなぁ、もお。
XJAPANの歌だったのね。

しかし、高畑充希という女優はこのまま行くと、大成するだろうな。
凄い美人ってわけではない所が、いいんだな。
お前はそれで褒めてんのか?ハイ




https://www.youtube.com/watch?v=-g9tzS6od0k

2018/10/02

家内が近くの公園に「白い萩と赤い萩が並んで咲いていて綺麗でしたよ」と。
「そうか、じゃあ中秋の名月と一緒に見られれば良かったなあ、言ってくれればよかったのに」
「あなたはお仕事でしたから、言いませんでした。でもね、曇っていたのが、ちょっとだけ雲が消え月が見えました」

という事で、仕事で帰りが遅くなって、月も見なければ、団子も食べなかった。
萩も見ていない。
でも、おはぎは一個だけ食べた。
良しとするか。

そういえば萩と言えば、芭蕉の俳句

     一つ家に 遊女も寝たり 萩と月

誰かが、この俳句を「も」ではなく「と」ではないかと言ったら、金子兜太が怒り、「も」に決まっている、風情のない人間は困ると反論していた。

ま、どっちでも良い話だなあ。
いや、私の話がどうでも良い話だった。
ハンセイ






挨拶
2018/10/01

レコード屋の店員、これは私も含めての話であるのだが、客であろうと思われる方々から挨拶がなってないという指摘が度々ある。
勿論、直接言われた事は一度もない。

ネットの書き込み、また、店を回っているという通の方々の意見・噂である。
これらの店員の挨拶云々の指摘が最初にがあったのは、確か評論家の寺島氏が某チェーンの店員は挨拶も出来ないのか?と書いたことから始まる。それを受けた読者から、一斉にそうだそうだと更に広まったと思う。
一応中小企業の中ながら大手のレコード屋、しかも店員という叩きやすく反論できない所に、目を付けた所が上手い、というか流石の人生のプロという気がしないでもない。
しかし、我々業界としても、挨拶も出来ないようでは社会人として、いや仕事人としてよろしくはない。
大いに反省しなければならない。

しかし、一つ私は言いたい事がある。
そんなに不満なら、指摘した方々も態度を変えられないのか?。
それで、欧米でのやりとりの例を挙げたい。
現地のレコード屋など膨大な数の店を廻った私の観察によると、客は店にはいると「ハロー」と言わない人はいない、レジでも「サンキュー」とか「グッドバイ」の最低限度の挨拶はする、勿論相手の顔を見て。
店員だけではなく客も挨拶をしない人はいない。

ウチの仕入部長も外国では、レジが済むと店員に必ずHave a nice dayなどと声を掛ける、すると店員さんからYou too!と帰ってくる、互いに笑顔で。

さて幸いな事に、当店に来たお客様に感じの悪い方はいない。
それは店が3階にあって入りにくい場所にも関わらず、わざわざ来るのだから、よほど気合が入っているためだと思われる。

私はお客様に対し、ウチに来てそうしろと言っているわけではない。
ただ店員が不愛想だという方々は、あなたが不愛想でなかったかのか?と、ちょっと思ってしまった。

今日の日記の内容は、仕入部長から「こんな事を書くな!」と怒られるだろうな。
ヤベ!

QAUTETTO DI LUCCA
2018/09/30

QAUTETTO DI LUCCA ”QUARTETTO DI LUCCA” RCA-ITALIA PML 10361 (Italy)

さて、60年代を代表するイタリア屈指の名盤である。
カルテット・デ・ルッカ、読めばそのままルッカの街のカルテット。
ルッカ(LUCCA)の町はイタリアの中央やや北側フレンシェから西側の海に向かいピサの近くである。
街は小さいが、ここの出身者にはプッチーニがいて、歴史的にも独立心旺盛な民主政治の進歩的な町であったという。
そんなDNAの故なのか若者数人でバンドを結成したのが始まりとなった。
彼等のポリシーは「軽音楽を軽視しない」という事で音楽活動を進めたようだが、中々のナイス・ポリシーであったと褒めたい。ジャズメンはこうでなくては。
Antonello Vannucchi( アントネロ・バヌッチ)(v)
Vito Tommaso(ビト・トマソ)(p)
GiovanniTommaso(ジョバンニ・トマッソ)(b)
Giampiero Giusti(ジアンピエロ・ガスティ)(drams)
1959年の彼らはサンレモ・ジャズ・フェスティバルに出演し、大いに観衆にその名前が注目されたのである。
その後イタリア各地で演奏に恵まれRCAとも契約に至る。60年からカルテットとして活動し、演奏範囲はヨーロッパ各地に広がり評価も高く、チェット・ベイカーとも共演したらしい。そしてついに、62年にはレコード発売に漕ぎ着けたのである。それがこの作品で、彼らの革新性の高い演奏が聴かれる、芸術アルバムが世に出された。

クールさが非常にシビアであり、この時代においては、非常に斬新で革新的な演奏である事が分かる。
それでいて、決してフリー・ジャズでもなく、絶妙な、稀に見る出来の良さなのである。
俺たちは、アメリカのジャズの物真似でなくイタリア人のジャズをやるんだと、だから単なるスイングでもないのだというバシバシと決めた音楽の気概がある。
その後。なぜか彼等は軽音楽が好きだという通り、彼らの名義でPOPSの45回転EPが時々見ることがあるが、それも実に興味深い話である。ポップスとジャズはかなり近い種なのだな。

だが彼らは65年にはグループは解散し、兄のビト・トマソは異なる道、映画・演劇などの音楽を手掛けるようになり成功したようだ。
バイブのバヌッチはオーケストラに所属しジャズ以外の音楽活動を残した。
従ってジョバンニ・トマソだけがイタリアン・ジャズの代表的ベーシストとしてプレーヤーのキャリアを継続したことになる。

ジャケットを見ると彼等4人が思い思いのスタイルで、石造りの古い建物の、前で撮った写真である。
石の重ねた柱が見事で、4人ともクールな様子である。
一件ミラノの駅ではなかろうかと思ったのだが、どうもフィレンツェの美術館の前にいるらしい。
1962年、イタリアの航空会社アリタリアが日本との就航を開始した記念で、日本美術展覧会が開かれたらしい。その入り口に浮世絵の版画ポスターが貼ってあり、ALITALIAとTOKYOの文字が読み取れる。
優秀だが彼らの唯一のLPで、大変珍しく、貴重な記録である。

WYNTON KELLY “KELLY AT MIDNITE”
2018/09/29

WYNTON KELLY “KELLY AT MIDNITE” VEEJAY LP 3011 (USA)

かつて、MIDNITEというのは間違っていて、小さな会社だから字も知らないと馬鹿にしていたファンの方も多々いたのであるが、NIGHTは略してNITEと書くこともあるので学が無いなどと威張ってはならない。
さて、今回はオリジナルでかつ、深ミゾありの良い感じのアルバムである。もちろん、ジャケットにコーティングもある。
こういうのはジャケや盤面を見ているだけで、さぞかし良い音がするに違いないと伝わってきて、好き者としては非常に興奮するものである。

さて、このアルバムのウイントン・ケリーのピアノの雰囲気がよく出たハード・バッパーとしての面目躍如盤なのである。
音質もメリハリがあって、バシバシ決まるところが爽快な気持ちにさせられる。
A−1Tenperance からまったくもってモダンジャズらしいピアノである。
2曲目のバラードも彼らしい聴かせ方を知っている演奏で見事。
さて実はこのアルバム、B面が真骨頂なのである。
Philly Joe のタカタカというドラムに誘(イザナ)われて、ピアノが入るところの流れの見事さにあっけにとられる。
歌心たっぷりで輝きのあるサウンドは聴いてなぜかリラックスしてしまうのだが、音楽は至って隙のない見事さで、良い仕事しているのである。
ノリとタメがあって、スイングして、良いジャズだなあと、感心して最後まできいてしまった。

彼の名盤と言えば、Riverside ”Kelly Blue” や、Veejay ”Kelly Great”など、誰もが挙げるところであるが、ウイントン・ケリーの良さが出るのはピアノ・トリオ、そういう意味でも、このアルバムは聴くにはお誂え向きでもある。
ましてオリジナル盤の音の良さは、余計に音楽芸術が引き立つというもの。
それに、もう一つ忘れてはいけない、ここでのPhilly Joeのドラムの音がバチンバチンと決まり、出来が大変よろしいのである。

ところで、VeeJayはブラック・ミュージックのレーベルとして、1953年に黒人夫妻によって設立されたレーベルで夫婦のイニシャルからVJとなったらしい。ソウル、R&Bなど黒人音楽をリリースし、かなりの利益を得、56年にはジョン・リー・フッカーとも契約した。
勢いに乗って58年からジャズ部門を作り、ウイントン・ケリー、ウエイン・ショーター、ポール・チェンバースなど良い人材とも契約し、いくつかのアルバムも制作し、中でもエディ・ハリスのExodusはかなりのヒットになった。
また60年代にはビートルズと契約をした最初の米国レコード会社であった。
1964年1ケ月だけで、260万枚のビートルズのシングルを売ったという、その偉大さがわかる。
ところが好事魔が多し、2年後には、会社は倒産したのである。
音楽産業の栄光と挫折を短期間に味わったのである。
数あるレーベルの中でも、圧倒的に面白い会社で有ることは間違いない。
ブラック・ミュージック好きな方が研究される事を望む。

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