HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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江戸前のすし
2018/08/07

先日、知り合いと話をしていて、江戸前のすし屋が少なくなった、と意見一致し、大いに嘆いた。
まず近年、寿司の学校が出来て、そこを卒業すれば即開業も可能だと。
ところが、一人で10から12人くらいを相手に一人で握れるすし屋の大将には及ばない。
それは丁稚から修行していないので、どうも そういう手早い仕事や、客を回すことが出来ないらしい。
故に、コース料理にして前菜だの、お造りだの、従来寿司屋で出なかった品が出てくる、その間に寿司が4・5貫出てくる程度である。
おまけにサーモンなど江戸前にはないネタも出てくる。
また、これは大変な問題だと思うのだが、江戸前の「にぎりの形」が消えた。
私など、実に残念でならない。
ところが、最近の若い方々は新しい手法のすし屋だとこれが大ウケらしい。
どうも回転寿司の高級版になっているらしい。
したがって、すし屋の大将に向かってサーモンくらい置いておけと説教する客もあるらしい。
新宿でも江戸前寿司は相当数が消えてなくなった。あっても一人2・3万以上もするような超高級すし屋だけである。
魚の仕入れ価格も高すぎる。
このままでは、ひょっとすると江戸前の寿司文化は平成とともに消えるような気がする。

じゃ、鰻屋はどうかと聞いたら、鰻の職人が減り、店先で下ろす職人も少なくなったらしい。工場で作ってきた串に刺した鰻を焼くだけだと。
おまけに中国産の安い鰻が大量に入り込んでしまい、日本のうなぎが売れないそうだ。
仕入れは高すぎて、もはや鰻屋で食べられる客がいなくなりそうである、

こうして考えると、平成という時代は、昭和まで続いた、江戸前の魚を食す文化が消滅する時代だったのかもしれない。
たぶん、我々の世代が、江戸前の食文化を知っている、最後の世代かもしれないなあ。

考えると、オジサンは愕然とするのである。

空蝉
2018/08/06

我が家の玄関を開けて入ろうかと思う、ちょうどその横に蝉の抜け殻がしがみついている。

7月初旬のある朝、なぜか玄関ドアの横にへばり付いていたものである。
家内が見つけ、これは掃除してくださいと言われたものの、忍びなく、「いやそのままで良いではないか」と答え、そのままになった。
以来、家内も何も言わず、なぜか蝉の抜け殻が、そのまま家の一部のようになってしまった。

そのうちに風でも吹けばどこかに飛ばされるに違いないと思っていたのだが、先日の時期外れの台風にもメゲず、すでにひと月になろうとしている。

綺麗なものではないが、箒で落として掃き捨てるのが惜しい。
蝉の抜け殻がくっ付いた家など、苫屋と言うんだろうなあと思いながら、我が家はそんなところであろうかと笑ってしまう。


    玄関の いまだ落ちぬか 蝉の殻


    空蝉の 生きるごとくに しがみつき

なす
2018/08/05

歳を取ったせいか、夏は茄子がいい。
味噌汁によし、煮て良し、塩もみも良し。
私はフライパンで焼き味噌を甘辛い味噌味でたべるのが好きだ。
最近は「しぎ焼き」というのかな?

また、網で焼いて皮をむき、しょうがと醤油で食べるのもイケル。
なんだか、親父になった気分である。


      なす焼いて この世の思い 断つが味噌



ドキュメント72時間
2018/08/04

昨夜のNHK、ドキュメント72時間。
名古屋 丸栄デパートの最終日の記録であった。
感動してしまった。
感動というか、悲しさが伝わって共に泣けた。

画面の中で「今日は泣かないよ、家に帰って泣く!」という言葉にぐっと来た。
私の田舎は名古屋が商圏であったし、叔母の連れ合いの出身が名古屋の人だったので、叔母は名古屋の丸栄デパートで買い物したことなど自慢であった。
田舎しか知らない私の家族は黙って聞くだけしか出来なかったものだ。
そういうデパートもビジネスの波に取り残される時代がきたのだ。

ところで、企業の閉鎖、リストラなどは、今どきの企業のどこにでもある話。
別に珍しくも無くなった。
かく言う私もリストラで旅行会社を辞めざるを得なかった一人である。
その時の仲間の言葉、「辞めるも地獄なら、残るのも地獄」。
それは多分、今でも途中で放り出されるサラリーマンの間違いない立場であり、いい歳をした立派な男であろうと、行き場の無い何とも言い難い立場である事を示している。
辛いなあ。

しかしNHKは時々、多局の及ばない ちょっと品のある、人間の心をえぐるような良い番組を作るなあ。





仲間とレコードを聴く
2018/08/03

昨日は、ジャズ・レコード仲間が見舞いに来てくれ、一緒にレコードを聴いた。
ウチのシステムも もうちょっとしっかりと鳴ると良いのだが。
まあ、今はこのままで。

帰りの電車が混むからと、早めに帰って行った。
東京の生活は常に電車の混み具合を念頭に置いて行動しないといけないから大変だ。
いつも家でぼーっとしている私にとっては、人が訪ねて下さる事が有難い。
嬉しいもんだね。

IRA KRIS  “JAZZANOVA”
2018/08/01

IRA KRIS  “JAZZANOVA” MPS 21 20907-5 (GERMANY)

今回の入荷アルバム。
私は店のオープンした当時を思い出す。
なぜなら一言で言うと、私のジャズ人生に全く縁のないアルバムであったから。
それが店を開いてみれば当時はまだクラブ・ブームだのDJブームだので、若いお客様が沢山来られていたのだが、ここ新宿小滝橋通り界隈は、まだ閑散とした通りでビジネスマンの影もなく、通行人と言えばレコードのビニール袋をブラ下げた若者だけが目立つ通りであった。
有難い事に、彼らはジャズ専門店の当店にまで来て「オジサン良いの無い?」と声を掛けてきたのだ。
それが、彼らが言う所の最高のジャズが、私の最高のジャズと全く一致しない。

それで止むを得ず、勉強してみると踊れるジャズであると。
ふーん!1930年に戻ってしまったのかと考え込む私。
ジャズと言う音楽が、せっかくダンス・ミュージックから 鑑賞に堪える高尚なジャズに位が上がってきたと思ったら、また下がるのかとオジサンは心配したのであるが、しかし、売れる物なら何でも売るのが商売の鉄則。
それで教わったのが、ブラジルのボサノバやこのような音楽であった。

前置きはさておき、何しろアメリカ出身と言えど、当リーダーIRA KRISはアルバム発売がこれ一枚、しかも、アメリカでの活躍は聞いた事がない。
ふーむ、と唸る私。
しかしだ、良く聴くとA面冒頭のCanto de Ossanhaの素晴らしいさ。
ジャズ・ボッサと言うか、ラテン・ジャズというか。ジャズ・フュージョンというか、なんとも現代的かつ電気楽器でもないのにエレクトリック・サウンドかと聞き違えるほどの、クールなサウンド。
アップテンプで もちろん踊れる音楽なのに、聴く人によってはバラードの雰囲気も出していて、そのどの方角から聴いても、ハッとさせられるメロディーの流れとサウンドにオジサンびっくり。
最高なる表現形態は、時代、時代において常に追及され、しかも、遠大なる計画であることは言うまでもなく、絶望なる作業の実現に他ならない。

MPS/SABAのアルバムには、こうした一曲がジャンルを超えた凄い力を見せる作品が潜んでいることが多くて、実に痛快なレーベルであるのである。
ドイツのMPSレーベルの底力。ちょうどジャズ・ミーツ・ワールドの運動の流れの延長で、当アルバムも作られたのであろう。いや、いや見事なアレンジぶりと、構成に驚くのである。
そしてまた、ジャケットのデザインのエキゾチックな事。
こうして今も、聴いていると、なんども針を載せてしまい、既に4度目。
ドイツの某DJ達が、この名前を自分たちのグループ名にしたのは、ちょっとずるいが、よく理解できる。

まあ、名盤である。たった一曲で!
踊らなくてもね。

2018/07/31

私のオーディオ、特にスピーカーなのだが、これが古いものなので、ちょっと臭い。
と言っても、かび臭いわけではないが、骨董の匂いというか、古い匂いとでもいうか。
まさにこれを「古臭い」というのであろう。
あえて骨董好きなら好む匂いかもしれない。

しかし家庭の中においてはどうもなんとも...
それで、香を焚く事にした。
香を焚くための小さな専用の炭を買ってきて、やったのだが、なんだかあまり匂わないというか火が消えてしまうというか、家にあった香が古かったのかうまく行かない。

それで、鳩居堂に行き線香を購入。
毎日火をつけることにしている。
香の通の中には煙が立つことを嫌い人もいるらしいが、私は煙がスーッと立ち上る。長い一筋が、ふっと崩れたりするのを見るのも好きだ。
心も落ち着くし、良いものだ。

しかし、種類が多くて、何をどう買っていいものやら。



  香焚いて 満ちる悲しみ 満足す


今年も咲いた...
2018/07/30

今年も無事に咲いた。
我が家の自慢の百日紅(サルスベリ)。

季節外れの思わぬ台風の雨と風でちょっと枝が折れたりもしたが、なんとか咲いた。
我が家のサルスベリは枝垂れるのが珍しい。
近所の人からも、「咲きましたね」と声を掛けられる。
家族からも、人様からも褒められることが何一つない私であるが、これだけは、なんだか嬉しい。

犬の....
2018/07/29

読売新聞に韓国の「犬」を食べる事が紹介されていた。
韓国では、いまもって犬は人間のペットではなく、食べるためでもあるのか。

どの程度食べられているかというと、最近一年以内に食べたことがある人は、60歳以上で半数近く、50代は60%ちかく、40代は40%ちかく、30代、20代は20%を超える。
しかも、犬を食べることをよく思うかという世論調査では37%が良いと思っていると。
新聞を読んでいて非常に驚いた。
先進国にはいま一歩かな。

日本では、犬の肉を食べる事は戦後、食料不足からあったと聞くが、江戸時代にすでに綱吉の「生類憐みの令」で意識はしていた。
しかし、安心できない。

世界においては日本人の鯨の肉を食べる事において、野蛮人扱いされている事も事実である。
今後更に、馬の肉を食べる事が攻撃される事が予想される。
かといって、フランスなどでは馬は家族であるとの認識から、食べないのが通常であるが、ある地方においては食することが知られており、すでに、それらが攻撃目標にされているらしい。

徐々に 家族と友に存在する動物などの肉食において、世界的にモラルが高められる事は間違いない。


木鶏
2018/07/28

2・3日前の読売新聞スポーツ欄にほぼ一ページで双葉山の事が書かれていた。
あの69連勝の横綱の双葉山。
私の亡くなった母などは69連勝よりも、璽光尊(ジコウソン)事件の新聞報道を覚えていて、あんな人はマトモな人間では無いと言っていた。
まあ、人というものは、見る人により、色々な考え方がされるものである。

私は「我いまだ木鶏たりえず」の言葉が好きである。

69連勝を安芸ノ海に敗れた際、恩師に打ったとされる電文である。

「木鶏」(モッケイ)とは中国の故事である。
昔、闘鶏が趣味の王様が調教の名人に鶏を預けた。
少したって見にゆくと、鶏はコッコッココッコ・コケーと元気が良い。
これならイケるかと聞くと調教師は、空威張りしており駄目ですと答える。
また少しして行くと闘争心が溢れている、どうだと聞くと、まだまだです。
また少しして行くと、目がランランとして強そうなのでどうだと聞くと、いえいえ、まだでございます、
そのあとしばらく経って行くと、仕上がりました。他の闘鶏に動じません、まるで木鶏のように泰然自若としております。
他人から見たら木で作った鶏のようだと。
かような徳の高い闘鶏はいないでしょう、 と答えた。という話。

双葉山は、きっと横綱の徳について深く考えていたに違いない。
それが負けた時にこの言葉が出るとは。
すごいね。

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