HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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オリンピック・スタジアム
2015/07/18

今朝、NHKのニュースでも詳しくやっていた建設費用が高くなってしまった問題。
私は思う。
建設以前の問題とした、設計者が何故日本人でないのか?
こういうイベントは我が国の競技場はこういうレベルだと、素晴らしいでしょと、世界に示すのがオリンピックなのではないか。
国際的というのは、我が国の様々な事例を海外に示す事ではないか?
序でに言えば、オリンピックは競技場の周辺などにも彫刻や絵画なども飾る。それは必ずその国の芸術家なのである。
それは世界に我が国の芸術はこういうレベルだと示すことなのだ。
いわば、発表会の場なのである。
そして、それは大変重要な事ではないか。
その意気込みを失ってしまった日本は、一体何を世界に示すのか?

思えば最初に誘致を言いだした石原知事はいなくなり、猪瀬氏に代わってこれで行けると思った瞬間、足を引っ張り知事の座から引きずり下ろした時から、多額の金のおこぼれにあずかりたい人々の群れに、取り込まれた結果であろうか。

こういう巨大かつ大きな意味合いの建造物こそ、日本人に設計をさせないといけない。
もう、終わった感じがする。

CHET BAKER “AND HIS QUINTET WITH BOBBY JASPAR(vol.3)”
2015/07/17

CHET BAKER “AND HIS QUINTET WITH BOBBY JASPAR(vol.3)” BARCLAY 84.042 (FRANCE)

以前、三枚一遍に入荷した事があったので、一度は書いたと思うが、昔過ぎて遡れない。
ウチの日記もインデックスやジャンル分けにしないと、遡って探すことが困難になって来た。
まあいいや、もう一度書こう。

チェットは53年終わりころにパシフィック・レーベルにジェリーマリガンと共に10インチでデビューしてから、あっという間に人気はうなぎ登り、54年に吹き込んだ10インチ盤「シングス」も大ヒット。
55年に欧州ツアー敢行という運びとなった。
デビューたった2年で、いきなり欧州ツアー、しかもジャズメン、という事はいかに、プロモーターに勝算があったかということである。
たしかに、映画「太陽がいっぱい」のリメイク版の中でも、イタリアの若者が、今一番カッコ良いジャズはこれだと、発売されたばかりのチェットやマリガンのSPをとっかえひっかえ聴いている様子が写しだされていた。
個人的に言えば、アート・ブレイキーが出てこないのにショックを受けた。
モトエ。

さて、ツアーはフランス、スイス、ドイツ、オランダ、イギリスとどこへ行っても観客は集まり、ツアーは大成功だった、たったひとつ、ツワーディックの急死事件以外は。
しかし、チェットは困難にも打ち勝って、アメリカに意気揚々と帰って来た。
そんな、彼の人生で最も華々しい時の演奏の記録である。
55年10月から56年の春までのフランス・バークレイ・レーベルに吹き込んだ記録の貴重さ、素晴らしさは今更言うまでもない。

1集は赤を基調にして、2集は黄色が基調に、3集は青が基調となる。
特にこの第3集は素敵なデザインで、チェットの顔が、両手でも持ったトランペットに隠れていて、その様子を斜め後ろ上からのショットである。
Tシャツというか下着姿なのだが、正面から光が当たっている所も如何にも洒落ている。
チェットの像がダークブルーの闇から浮かびあがった良い写真である。
ジャズは赤黒ではなくてブルーだから。
リスニングルームの壁に飾っておきたい写真のベストテンにも入ろうかと言う出来で、思えばアメリカ盤のタラップを降りる写真と共に、この時のアルバムはどちらも秀逸で、金の掛かっていないジャズのアルバムの中で燦然と輝く。
また、第3集はそれまでの1・2集と異なり、サックス等との演奏が収められていて、そのどれもが好演奏。
もちろんボビー・ジャズパーの演奏は素敵。
これほどの衝撃的なアルバムはジャズ史上で考えても、そんなに多くはない。

チェットの演奏は若いころから晩年まで、どれもそれなりに良く、聴いて楽しめる。
だが、この時のアルバムは、年齢、この時期、ジャケットデザイン、レア度、とどれをとっても楽しめる。
特に第三集は、ャケット・デザインが優れているだけに嬉しい。

この1集から3集までの中で、1・2集は時々出て来るのだが、何故か3集は非常にレア度が高い。
売れなかったのか、不思議な一枚である。

深い闇の中に、微かな青い光の中に浮かび上がる彼のトランペットとそれに隠れた顔が、何とも言えず意味深で、見る者の心が揺さぶられる。

お金の事
2015/07/15

随分、昔の話になる。
私も若かった頃、会社の仲間がいて、その中の後輩Kは入社3年目。
それが仕事も優秀で、半年間のヨーロッパ臨時駐在の命を受けた。
さて、Kは欧州に行くのは良しとして、その間の現金だの貯金通帳だの何処に預けようかと考えた。
私が預かっておいてやると言った所、彼は悩んだ。
池田さんに通帳に判子など預けてしまえば、きっと貯金を下ろしてレコードを飼ってしまうに決まっている。
その点、もう一人の先輩Aに預けた方がましだと。
Aは同じ大学出身で、しかもKが就職を内定していた某大手薬品メーカーを蹴ってまで、わが社に入社させた程の仲の良さ、何があってもその先輩の友情と信頼に掛けた。
そして欧州駐在をこなし無事に帰って来た時に、爪に火をともして貯めた50万円の通帳は、たった1000円になっていた。
通帳の数字を見てむらむらとなったAが博打に使ってしまったのだ。
それも意に介することなく、笑いながらKの肩をポンと叩いて「大丈夫だよ、直ぐに返すから」。
その後、Aはギャンブルに狂い会社を去った。
今も50万は却っていない。

もう一つ。
同じ頃の同僚でBがいた。
Bの父親は身体が弱っていた。
それで父親は考えたらしい。
貯金は3千万ほどある。この通帳と判子を誰に預けようかと。
Bには妹が一人いた。
父親は、Bに預けたら、きっと使ってしまうに違いない、親子の仲も実際それほど良くはない。
それで妹の方に託した。
Bが家を購入したいので頭金の一部にお金を少し借りようかと、父親に話したところ、「ああいいよ」となった。
所が妹がうんといわない。
良く確かめたら、預かってたった半年で残金は「0」に。
何に使ったかと問い詰めれば、新宿のホストクラブにつぎ込んだと。
半年間、通い詰めて、金が無くなったら、縁も切れたと。

一つ言えることは、「人格と、お金の人格は別」と言われる所以である。
もう一つ「人格と、下の人格は別」とも言われる。
男も女も同じである。

一挙に夏
2015/07/14

雨の日が続いたと思っていたら、数日前から急に晴れた。
晴れたのは良いが、今度は暑くてかなわない。

毎年ながら、これで。


  七月は 脳を休めて 水飲んで  (動火)




WYNTON KELLY “KELLY BLUE”
2015/07/13

WYNTON KELLY “KELLY BLUE” RIVERSIDE 12-298 (USA)

今更ではあるが、私はこのアルバムが非常に気に入っている、マイブームだな。
それは、私のオーディオ装置がアルテックの820A(改)と言う、まるで車のマフラーのメーカーのような名前になってしまうのであるが、それによってこのレコードの音のメリハリの凄さに開眼した事が一つ。
それから、当店のあるお客様がこのアルバムを気に行っていて、一押しだというので、そんなに良いなら聴き直そうかとなったのである。

それで。このアルバムの音は抜群である。
かと言ってブルーノート系のような、造り上げてしまった音ではなく、ナチュラルながら十分なメリハリを持っているからである。

もちろん一曲目のボビー・ジャスパー、ベニー・ゴルソン、ナット・アダレイとの三管編成は悪いはずがなく、このアルバムを代表する名曲で、私なども若い頃からこれが掛かると口ずさんで聴いた。
私が今回取り上げたいのは、次に来るA−2のSoftly as in a morning sunrise(朝日のようにさわやかに)である。
これは、なぜかは知らぬが、特別の凄い音なのである。

私は以前、三菱の2S−305というNHK仕様というスピーカーであったので、まあこんな音かという感じだった。音よりも演奏がよいという。
ところがスピーカーが変わった結果、音楽の表現が全く違って来てしまい、早くアルテックで聴くべきだったかと思った。
この曲はソニー・クラークもブルーノートで演っているが、ブルーノートのサウンド作りが印象的なので、圧倒的にあちらに引っ張られてしまうのだろう。
しかし、こちらのサウンドは勝るとも劣らぬ、アタック音などバチンと出て来てそれもナチュラルだから、気持ちが良い。
このアルバムに収録された曲の中でも、断トツに凄い。
なぜ、そうなったのかは私も解らない。
それにこの時の演奏はメロディの美しさは言うまでも無く、彼の背筋がピンと伸びた、気合十分の様子が伝わってくる。
今更に、彼の音楽は凄かったと感心した。

もちろん彼には名盤が五万とある。
優しかったり、暖かかったり、寛いだ気持ちにさせてくれる、良い作品ばかりである。
しかし、ウイントン・ケリーここに有りと言う作品は、正にこれの、この一曲に尽きる。
ウイントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミイ・コブ、偉い!
しかし、こういうサウンドの演奏を聴いていると、やはりマイルスがウチ来いと誘うだけの事のある男だったと確信するのである。

ところで、1959年2月に3三管編成でたった2曲しか収録がなく、トリオの演奏は3月に収録されているのだが、どちらもアルバムにするには、もう1・2曲不足しているのだ。
しかし、双方とも出来が良かっただけに、カプリングして発売したのだろう。
せっかくなので、どちらも完成形にしてリリースしていれば、どんな名盤になったかも解らず、惜しい事をしたとおもうのだが、まあ、なんとも不思議なアルバムである。
しかし、結果オーライで良かった。

しかし、この頃あたりのウイントン・ケリーは素晴らしいね。
ジャズだよね

「江戸っ子だってねぇ」浪曲師 広沢虎造一代
2015/07/12

「江戸っ子だってねぇ」浪曲師廣澤虎造一代 【吉川潮】NHK出版

友人が面白かったから読みなよ、と置いて行った。
嫌いじゃないから読んでみた。

「旅ゆけば 駿河の道に茶の香り ♪」

私は大して浪曲を聞いた訳ではない。
だが。たいがいの話は大まかであっても知っている。
何でだろう、思えば子供時分から。
婆さんがいつもラジオで 聴く傍で一緒に聴いていたからだ。
ウチの婆さんは、新聞も読まないくせに、その時間になると急に現われて、時間だ時間だとダイヤルをどこそこに合わせろと、エノエチケイだの私に指示をする。
私もエノエチケイってどこなのととぼけて見せたりしてNHKに合わせる。
そして浪曲を聴くのだ。
私は、あんまり悔しくて母に告げ口をするのだが、母とて姑にに敵う訳はない。
いつも婆さんの独壇場。
それで、一緒に聴いていたんだな。
無理を承知の浪花節。

本を読んでいると、昔を思い出す。私が子供の頃の、婆さんの浪曲好きは元より、近所のどの家の年寄も皆浪曲を聴いていた。
ラジオと浪曲は一体だった。
その中で廣澤虎造は一番のスターだった。
力道山のテレビに負けるまで。
聴かない私も話を覚えているんだもの。

学校で習った勉強は覚えていないのに、こんな事ばかり覚えていた。
馬鹿は死ななきゃなおらない ♪




ところで、私は廣澤虎造のレコードを持っている。
清水次郎長の話、6枚組のボックス。
この機会にと聴いてみると、いやいや、いやいや、廣澤虎造の声の良い事。
廣澤虎造のあとに廣澤虎造なし、と言われた事がよく分かる。
こんな声の良い人が日本人にいたのかと、オジサン驚いた。

きっとジャズ・ボーカルでも歌謡曲でも大成したに違いない。
彼はニューヨークでサッチモを聞いたらしい。
自分と同じだと思ったというから、そういう事だ。
どちらもブルースだったんだな。

店の小鳥
2015/07/08

写真の小鳥は、人がそばを通ると電磁波や音に反応して鳴く仕掛けになっている。
右側の黄色の小鳥は、当店の開店当時に前にいた店のお姉さんが、お客様が入って来たら鳴くので便利で良いからとそのまま、置いていったものである。
以来、店で客寄せとして頑張っていたのだが、働きすぎなのか電池交換しても鳴かなくなってしまった。
仕方なく先日、小物を売っている店で購入して来たのが青い方。
これが又働き者で、よく鳴く。
古い方は、お役御免で捨てようかと思ったが、それが申し訳ないので、そのままにしておいた。

それが、ここの所新入りの方が、疲れたのか不調なのか働かなくなった。
そのとたん、今まで全く鳴く事も無く捨てられる寸前だった、黄色の小鳥が、かすかな声で一生懸命に鳴いている。

オジサンもう、愛しくて、愛しくて。
アホくさい話だけど、不思議だね。

一人で忙しくて
2015/07/06

一人が買付にいっていて、忙しくて、日記の更新もままならない。

私の大学入試の時の話
2015/07/03

もう50年になろうとしている。
私が大学を受けようと思ったのは、家から逃げ出したかったからである。
卒業後材木屋の仕事しか念頭に無かったのが、急きょ神奈川県の淵野辺という所にある獣医大学を受ける事にした。
私の受験のために、東京にいた姉が、前泊のために大学付近の旅館を探して来てくれた。
その辺りには数少ないちょっと大きな旅館だった。

宿に着いて、住所、氏名など記入し、夕食になった。
広間には大勢の受験生が集まり、座が盛り上がって、そろそろ夕食も終わりに近づいた頃突然、宿の女将が大きな声で「池田晴彦さんはいますか?」と。
何で私だけといぶかりながら「はい」と返事をすると。
「あなたですか、ちょっと話がありますから、こちらに来て下さい」。

宿の居間に通されると、80歳ほどのおばあさんが小さく炬燵に座っていた。
女将が「こちらにいるおばあさん、私の母です」
仕方なく「こんばんは.....」
「実はね、母の出身があなたと同じ所だったんです。生徒さんの住所を見ていて驚いて、あなたを呼んだのです」。
お婆さんに、住所を読み上げ「間違ってないね」と確認、お婆さんも頷く。
なんという偶然。
お婆さんが言うには「私は川向うのミゾクチという家の出なんですよ」。
私がよく知っている家なので「僕の母の実家は屋号が下畑といって苗字が前野です、ミゾクチは近くて親戚です」と。
お婆さんは、「そうだそうだ、近所だ、よく知っている」と余計に喜こぶ。
女将が「これも何かの縁、神様の引き合わせ。親戚の子が、よくぞここに来てくれました」と喜んでいた。
女将はおなじ炬燵に座っていた娘を指さし、私の娘だが、去年高校を卒業して家を手伝っている、あなたが住むところが無いはずだから、ここに住んで大学に通うのも良いではないか、授業料を払う訳には行かないが、住んでもらうのは何も心配はいらない。その後、娘と結婚も考えてくれ、という話まで飛びだしてしまった。
娘を見れば可愛くて中々の美人、でも旅館という家のせいかやや大人じみているのが気になる。
しかし、私もそこまで言われてしまえば満更でもない。

というイキサツがあって、受験どころでもなくなった話の中で、田舎に戻って見ると、発表の前日、女将が知合いの教授にこっそり頼むと、補欠だから30万円ほど用意をしておけという話があると。悠長な時代の話である。
しかし、成績が不足した事は間違いない事実。
考えた私は、家が倒産したばかりなので30万など払えるはずも無く諦める事にした。
父親は頑張ると言ってくれたが、私には到底無理な話と思えた。
女将は残念がって何度も電話をくれたが、丁寧に断った。

それで母の叔母にその話をするために出かけて行った所、既に黙っていられない母がしゃべって歩いていたので、近所のお婆さんたちは、当時の事を覚えていて、ある事ない事出て来てしまい、ニュースの少ない田舎の事、大騒ぎ。

叔母の話、淵野辺のお婆さんは、ミゾクチの実家の娘だった。
男の子がいなかったので、婿を取って家にいて農業など手伝っていたが、行商の若い男と出来てしまった。
度々、男が訪ねて来たところを目撃されていた。
50年以上も前の話を覚えていた。
田舎はね、家の者が知らない事を近所がみんな知っていると。
やがて二人は駆け落ちをし、名古屋に逃げたという話であった。
最初は探しに行った事もあるらしいが、見つからない内にやがて家の人間からは抹殺された。
死んだものとされていたのだそうだ。

しかし、駆け落ちした若い二人は、東京に流れ、食べ物屋などしてお金を貯め、淵野辺にて旅館を持ったのである。
駆け落ちした女の心の切なさは、今の私達には想像も出来ないが、家を出て以来、一度も故郷には帰る事が無かっただけでなく、葉書一枚出さなかった。
故郷を捨てた覚悟が垣間見えた。
しかし、女将の話によると、最近は年のせいか時々田舎の話が出て来るようになったが、自分達にはどうしてよいか分からなかった、という事であった

私の受験騒動で、双方の家と無事が確認され、ミゾクチからは手紙と共に、家でこしらえた干し柿をひと箱送った。こんな田舎なので送る物としてはこれしか無かったと。
淵野辺からはお返しにと手紙とお菓子が届いた。

ちなみに、私の叔母からは「オマエさん、ウチとミゾクチは親戚じゃないからね。むやみに親戚にするな」と、しっかりと怒られた。

BEN WEBSTER “WEBSTER’S DICTIONARY”
2015/07/02

BEN WEBSTER “WEBSTER’S DICTIONARY” RONNIE SCOTT’S/PYE N-112 (UK)

1970年に録音され、72年に発売になったアルバムである。
やっかいな事にPHILIPSレコードからも出ている。
どっちが、どっちの話はマニアに譲って。


このアルバムは抜群のムードがあっていいなあ、とお茶を飲みながら、空気感いっぱいのテナーを聴いていて、しみじみとジャケットを眺めていたら、何と言う素敵なタイトル。
ウェブスター辞典だと。
ウェブスター辞典とは、アメリカで出されている有名な国語辞典である。
その辞典と比較して、どうだと言ったところに面白味がある。
ウェブスターの辞典はあらゆる言葉を網羅して、出ていないワードはない、しかし、俺たちにもウエブスターという男がいて、その男ウエブスターの辞典は人生を長く生きただけでなく、アメリカ、ヨーロッパと各地を転々として、ジャズを広めて来た、そのウブスターの心の辞書はこれだと、世界に示したのが、このアルバム。
いや、彼だからこそ、そう威張っても許されるのだ。
ロンドンのクラブのロニー・スコッツの叔父さんは粋なタイトルを付けたものだ。
これぞ最高のダジャレ。

参りました!

演奏?
良いに決まっているさ。

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