HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。
  
BEN WEBSTER “WEBSTER’S DICTIONARY” | - 2015/07/02
- BEN WEBSTER “WEBSTER’S DICTIONARY” RONNIE SCOTT’S/PYE N-112 (UK)
1970年に録音され、72年に発売になったアルバムである。 やっかいな事にPHILIPSレコードからも出ている。 どっちが、どっちの話はマニアに譲って。
このアルバムは抜群のムードがあっていいなあ、とお茶を飲みながら、空気感いっぱいのテナーを聴いていて、しみじみとジャケットを眺めていたら、何と言う素敵なタイトル。 ウェブスター辞典だと。 ウェブスター辞典とは、アメリカで出されている有名な国語辞典である。 その辞典と比較して、どうだと言ったところに面白味がある。 ウェブスターの辞典はあらゆる言葉を網羅して、出ていないワードはない、しかし、俺たちにもウエブスターという男がいて、その男ウエブスターの辞典は人生を長く生きただけでなく、アメリカ、ヨーロッパと各地を転々として、ジャズを広めて来た、そのウブスターの心の辞書はこれだと、世界に示したのが、このアルバム。 いや、彼だからこそ、そう威張っても許されるのだ。 ロンドンのクラブのロニー・スコッツの叔父さんは粋なタイトルを付けたものだ。 これぞ最高のダジャレ。
参りました!
演奏? 良いに決まっているさ。
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梅雨注意 | - 2015/07/01
- 梅雨真っ盛り。
レコードの保管に注意しましょう。
エアコンの除湿のスイッチを入れましょう。 特に1階、台所、玄関付近が置き場所になっている家は、必ずエアコンの除湿を入れましょう。
ひと夏でカビは生えます。 臭いもつきます。
今からでは遅いくらいですが、しないよりましです。 本も同様です。
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万引き | - 2015/06/30
- 朝、コーヒー屋にいたら、ちょうど近所のスーパーのお兄さんが来て、「いやー、この間は大変だったんですよ」。
なんだと思ったら、万引きの話。 警察から連絡があり「どうも最近は万引きが多い、オタクの店も万引き犯が喜んで吹聴している事も耳にはさんだので、ついては立ち合わせてくれ」という事で、一斉取り締まり決行。
100円均一の客の多い日に狙いを定め、朝から客は並び、一斉に店内に雪崩込んだところを店員など見張っていると、こちらで商品をカバンに、あちらでポケットに、とあっという間に6人検挙。 一番ひどかった人は、近所の飲食店さんの主人で、1パック2000円の高額牛肉を、前掛けの内側に予め仕込んでおいた袋に5パックも詰め込んでいた。 素知らぬ顔で帰ろうとしたところをとっつ構えた。
ショックだったのは、全員、店員と親しく口をきいていた近くのオバサンやお婆ちゃんなど。 親しい人こそ取った量も多かった。 中にはおまわりさんに捕まったとたん、店の店員に大声で「○○ちゃん、助けてよ!」と叫んだと。 吉本喜劇も真っ青と思える話の成り行きにみな唖然。 店員も白け切って、そんな声に知らんふりで通したそうだ。 万引き犯が店員に助けてくれとは、思い出しても笑ってしまう。 だが仲の良い人こそ、万引きの犯人だった事がとてもショックだったと嘆いていた。
それを聞いていた、コーヒー屋の客が「そんな飲食店のご飯は気持ち悪くて食べたくないよね。あんときの牛肉が万引き商品だったなんて」と、考え込んでいた。
うん、今のジジババは拙いよ。
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デモ | - 2015/06/29
- 一度、書いたかもしれない。
だが、行進のリズムが気になって仕方がないので、よく聞くようにしていた。 それで考えた事。
ここ西新宿の辺りを、最近は頻繁にデモ隊が通る。 そのデモの参加者の雰囲気が、かつての左翼や労働者のデモと明らかに様子が異なる。 鐘や太鼓を引っ張り出して来て、賑やかである。 どうしても気になって仕方がない。
よくリズムを聴いていると気が付いた。 日本人のデモのゆったり感が全くない、また日本人特有の2拍子でもない。 ふと気が付いたのだ、これは川向うの国の人々のリズムなのだ。 スピードも速くて3拍子だと思う。 あちらの行進はみんなこんな感じである。 本で調べたら、まさに同じようなリズムの事が書かれていた。 近い国なのに、民謡のリズムも、日本とは全く異なると。
であれば、今回の安保法案に反対してデモをやっている人達って、いったいだれ? それに日本人が同調して、嬉々として平和・平和と参加と叫んでいるとしたら、滑稽極まりない話になる。
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家の関連で... | - 2015/06/28
- せっかくなので、私の父親つながりの話。
時々、知合いが集まりで話題が無くなると、誰か知合いに有名人が居る人?などとやっていた時がある。 そうすると、意外にもかなりの人たちが、親戚、学友、近所など色々な話が出て来て驚いた事がある。 有名人は意外に身近にいるものだと。
それで、私の場合は「池田邦吉」という変人がいて、それが従弟である。 ノストラダムス大予言の世紀末がブームになった10年以上も前の話。ビートたけしにも可愛がってもらい、その手の番組に出させて頂き、一時は引っ張りだこだったのだ。
ちょっと古い話なので、記憶があいまいな方には「悪魔の大王が降りて来ると、ポンペイのベスビオ火山が大爆発するはずだと、イタリアまで市長に会いに行き説得するも、お前は頭が変だから帰れと」言われてしまった、情けない話で有名にされてしまったのである。 大概ここで、皆ああ、あの方ですか!となるのである。
大概の方は、有名人になりたがりのお銚子者かと思うらしい。 所があにはからんや、意外にも堅物なのである。 彼は、小さな内から学年で成績が一番で、ずっと級長だった。 それが小学生の生意気なガキが、我が家の親などにも会った瞬間「僕はね級長なんだよ」と可愛げのない事をいうので、大人はチヤホヤするけれど、従弟の私にすると劣等感を掻きむしられた惨めな気分であった。 ところが、邦吉の学力は恵まれた環境によるものでは、全くなかったのである。
父親は〆吉というのだが、なにしろ子供に教育は要らないという親で、夜は8時過ぎに電気を消す。 勉強等してはイカンと小さな内から早朝、新聞配達をさせられ、家の助けを強要されていた。 であるから、邦吉は親に隠れて、家事の合間などに勉強し、夜は勉強をしたくて電燈の周りに新聞紙を被せて学んだ。 しかし過熱し、そこからボヤを出し父親にこっぴどく怒られると言う事件も起こした。 正に蛍雪の話そのものである。
その父親の〆吉だが、実は戦前、刀鍛冶の修業から始め、いっぱしの所まで上り詰めていて、帝展(現在の日展)の日本刀の部門において入選もした事がある程の立派な人物だったのだ。 その記念の小刀を長男である私の父に送られ、今はそれを私が持っている。 それが敗戦、日本刀は一気に不用品と化し、名誉を失ったついでに仕事も失ったのである。 出来る事と言えば身に覚えの鍛冶屋の仕事だけ。 それで東京下町の鉄工所の職人となったのである。 要するに戦後の時代に上手く合わせられなかった一人でもある。
その中にあって更に悲しい事に、邦吉が小学校の内に母親は病気で亡くなってしまう。 そんな辛い中でも、たった一人で勉強を続け、遂に東工大に入学する。 東京大学も大丈夫だから行け、と担任に言われたのだが、万が一にも落ちた場合は、親が進学を認めない方針だったので、絶対の安全策だったとの事である。 彼は勉強を重ね、建築士になり、ツーバイフォー工法の現実性を説き、我が国にツ−バーフォー工法の住宅を広めた一人でもある。
それが30年、蓄えも出来、つっ走って後ろを振り返れば、仕事ばかりの人生、趣味の勉強でもしたいなあと思った。 勉強の人だから。 知合いに誘われてラテン語の教室に通ってみたのが、運のつき。 そこで出会ったのが「ノストラダムスの予言書」。 彼は優秀だけに、読んでしまった。さらに裏の裏まで。 苦労はしたけれど、純真な性格だけに、疑う事を知らなかった。 そのまま信じ、例のテレビ番組に誘われてしまうのである。 そのブームも終わった。 おわったのだが書き物が沢山あって、それなりに人気も続いているようである。 彼も何か感じる所があったのか、最近は「自分は神の使いだ」と考えているようである。 私の姉に言わせると、我が家の家系は「天才と気狂いしかいない」と言われる所以でもあるのだが、常人には理解不能な人でもあって、彼がどちらかは他人に任せる事にしている。
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叔父のこと | - 2015/06/27
- せっかく、私の原点に触れてしまったのだから、ついでに叔父の事を思い出して見た。
書かないと、片落ちした気持ちになってしまう。だがこれは私の備忘録と言えるもので、他人が読んで楽しいものではないが、自分への記録として残す事にした。
叔父は大正2年に生まれた。私の父が明治45年だから、多分そうであろう。 私の記憶では4月1日の生まれだったという事。 なんとも4月馬鹿というオカシナ日に生まれたのも個性的な人の宿命であろう。 私の父が長男で「林一」と言う名前で、叔父は2番目に生まれたから「作二」と名付けられた。 2番目に作ったから作二だと。 何とも軽々しい期待感の薄い名前である。 もっとも、その後の子供達はもっといい加減な名前の付け方になる。 次が生まれた時は大正だったので「正男」。 また次に男の子が生まれてしまったので、もうカナワンと、これで子作りは〆ようという事になったので「〆吉」(しめきち)という、絶望的な名前であった。 しかし人間の子孫繁栄のため、神はそんな願いを聞き届ける事は許さず、また人の思いと行動は一致しないもので、昭和になってから、また子供が出来てしまった。 それが昭和になっていたのでそのまま「昭造」という昭和に造ったと誰にも分かる単純な理由だったのだ。 という名前の話で終わるつもりはない。
作二の生まれた頃もまた池田家は、父親は相変わらずの酒浸りの人生で、当然のことながら貧乏だった。 尋常小学校の時、近隣の商家に奉公に出された。 本人の話によると授業中にも関わらず、迎えに来られ、そのまま相手の家に連れて行かれたという話である。 奉公先は、木曽福島のお代官を勤めた家の娘が嫁いだ商家で、先方のたっての希望で奉公先が決まってしまったのだった。 商家には男の子が3人いたのだが、作二の頭の良さを聞いて是非にとなったものだったと本人は語っていた。 そこで、昼間は店で働き、夜は主人の勧めで当時の実業専門学校に行かせてもらって日々を送っていた。 その内に、戦争が始まると言う事になり、志願して軍隊に行った。 店の主人は、何故戦争などに行くかと烈火のごとく怒りのお前の将来の為を思って、学校にも行かせて育てていたのにと、とても残念がった。 しかしお国の為と思い、満州に行き、自動車部隊で修理などしていた。 しかし、残念ながら結核に感染。死んだと思われたのが生き返り、半死の状態で船に乗せられ広島の軍関係の病院に収容された。運良く少しだけ回復したところで、もういいだろうと東京の陸軍第一衛生病院に搬送されたが、結核はすっと長い間、身体からいなくなることはなかった。 陸軍第一衛生病院とは多分現在の新宿にある国立医療センターの事か?
そんな月日の立つ内に、商家の息子達も成人し一人は東京の商社に勤めていたので、再び兄弟の付き合いが始まった。 頻繁に会いに来てくれ、少し良くなったところで、田舎に帰るための背広も作ってくれ、ようやく田舎に帰った。 この家は家族ぐるみでなぜか、ずっと生涯に渉って協力をしてくれたそうだ。
兄林一の妻の実家が庄屋で余裕があったので、そこでも世話になり寝泊りをつづけた。 春先になり、竹の子が沢山取れると近隣に売って歩いたり、化粧品の時代が来ると考えて、化粧品を仕入れて男ながらに売って歩くなど、ちょっとしたアイディアを作り上げて行った。
その時代の叔父の話。 行商をしたり、色々な仕事をやってみた。他人にひどい事を言われたり、苛められたり、お金が乏しかったり、疲れ果ててしまったりすると、実家にいる母親やヌクヌクとしているだけの兄貴の事を思った。 自分の不運はイカンともしがたく、何としても成功しなければと思った。 そんな時によく山を見つめると、黒々とした針葉樹林、特にヒノキの山が広大に広がり、ここは木しかない、きっとこの木が自分を成功に導く鍵だと感じた。
そうして、国有林の森林組合が経営する木材会社に入ったのだが、優秀さと人気でみるみる頭角を現し、ついに社長に就任した。 その内に法律も変わり、会社は存続理由が無くなってしまい解散と言う事になった。そこで作二は、ならば自分でやりたいと、会社を買い取り、ついに材木屋の社長になったのだ。 作二の信念は、おなじ社長でもオーナー社長でなければ人生の意味はないと。
その後はトントン拍子に成長を続けた。 やがて県会議員等を勤め、当選と落選を繰り返した。落選中は、押して押して押しまくると口癖の実は頭を下げての挨拶運動、それが当選すると、今度は人々から威張っていると陰口を叩かれ、落選といい筋書き通りである。
いずれにせよ作二は商売だけでなく、天皇家・徳川家の直轄地だった尾州ヒノキの保護にも勤め、伊勢神宮の式年遷宮のヒノキを納める名誉も受けた。 それは子、孫へと引き継がれた。
作二叔父はお金を儲けたと同様に、お金をばらまいた人でもある。 バラ撒いたといっても、叔父は困った人が来ると、己の苦労と重なってしまい断る事が出来ず、人の苦労を助けたいとお金を貸してしまう。勿論、貸したお金が却って来たためしなどない。 また近隣の町村から、村おこし計画で、温泉のボーリングなどと言われると、直ぐに多額のお金をポンと払ってしまうのだ。 後で叔父に言われて、その温泉に行ったのだが、色々の協力者の名前の中に最初にお金を払った本人の名前が一切出ていなかった。 世の中はそんなものであると、解っていながら全く見返りの無い事をやっていたのだ。 また結婚詐欺に遭い多額のお金を取られた話も近隣では有名になった。
そんな叔父が僅かな暇を見つけて俳句を作っていた文学好きでもあった。 私から見ると、気が狂ってしまうほど必死に事業に精を出し、それでいて出て行く金には無頓着で、人間性は大らかで、ちょっと威張っていて、笑顔は可愛く、騙されても何にも言わないところなど、男として素晴らしく、私には理想的な人物像そのものである。
私の姉の話。 叔父が亡くなった時、ふと思いつき、叔父の頭を触らせてもらった。 丸くて大きくて形の良い頭だった。 思った通りの立派さに、頭の良い人でかつ天才だったと感心した、と。
棺桶の中の死人の頭を触りたいとなど馬鹿な事を言い出した姉の突飛な態度に、遺族は大変困惑したに違いない。 よくも許したものである。
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通販リスト更新 | - 2015/06/25
- 通販リスト更新いたしました。
宜しくお願いいたします。
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お金の... | - 2015/06/23
- 私は、自分の人生を考える時にはいつも「私はお金には困らない」と言い聞かせている。
確かに、今までの人生で度々困難に遭遇したが、なぜか何となってきた。 誰かが救ってくれたり、金が巡ってきたりした。 それはなぜだと振り返って見ると、たった一つのあるポイントにたどり着く。 それは私が小学校5年生くらいの頃だった。
時々、父親の一つ下の叔父が遊びに来るだびに私の事を可愛がってくれた。 私が池田家における本家で、しかも男一人の長男だったのでそれもあったらしい。 当時、叔父は既に材木屋として成功を収めていて、まだ県会議員はやっていなかったが、なかなかの羽振りであった。 それがさらに成長を続け、伊勢神宮や皇居にヒノキを収めるようになるのだ。 ある日叔父が、自分が商売で成功したのは「人を見る目がある」からだという話になり、独自の人相だの耳の形だのと話になった。 私の顔をじっと見て「お前は金が貯まる、最悪でも金に苦労はせん顔だ」と言った。 ふーん、そんなもんか、と思った。 その後も度々そう言われ、その度に「お前は俺の下にいろ」とまるでラッキーボーイのように言われ続けた。 思えば、そう言われた事が、ピンチの時に心のどこかで頭をもたげてくる。
あの時の叔父の言葉は私の人生の魔法の呪文のようで、あるいは特効薬だったかもしれない。 それを言ってくれたのが、海千山千いや魑魅魍魎たる戦後のどさくさを乗り越えた材木商人たちから騙されたり裏切られたりして、人を見極めるための叔父なりの人生観から出た、独自の人相学だったと思うと、それは、不思議な真実味があったのだ。 子供なりにそれは分かっていて、とても嬉しかった。
過去の人生をつくづく眺めると、私は「不幸中の幸い」があって、ずっと生きて来れた気がする。 高校の時に商売下手の親父が骨董品などに手を出して倒産したのを救ってくれたのは、当の叔父だった。 今の金額にして2億円くらいであるが、それをポンと出してくれた。 大学に入った後の生活費と授業料は、我が家の工場で働いていたまだ20代だった柘植さんという人が、倒産を機に独立し、私の父親が失敗した同じ木工品の商売で結構儲けが出たからと、これまたポンとお金を払ってくれていた事を後から知った。 私よりちょっと歳上なだけの、まだ20代の若さだったのにと思うと申し訳なくて泣ける。
結婚して家も無く金も無い私がレコードなど買えたのも、嫁の実家が裕福だったので、庭の隅に家を作らせてくれ、食べる事に心配が無かったからである。 会社のリストラの後、買い貯めてあったレコードが役に立ち、レコード屋になれたのも、そのお蔭である。 また、レコード屋を始めてから、来てくれた人は良いお客様ばかりでいつも助けてもらってやってきた。
私は、そういう人々にどうやって感謝して来たかと言うと、誠に心許なく、申し訳ない想いに心が切ない。 私は天国に行けないかもしれない、と思う今日この頃である。
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昔の事 | - 2015/06/22
- 家の倒産。
高校2年の初夏の頃だったか、父が真面目くさった顔で話があると。 訊けば、今まで材木屋として工場をやっていたが、にっちもさっちも行かなくなった。ついては明日、俺の兄弟が家にきて一族の会議があるから、お前たちもいてくれと。 学校を休んで家にいると、父親の兄弟の内近隣でやっている材木屋関係者4人が集まった。 しかし内々に、既に叔父とは借金の肩代わりの話は済んでいたらしい。 兄弟の前で、父親がイキサツを報告し、その結果池田家の恥を作った事を詫びた。 喧々諤々兄弟の言いたい放題の話を、我々家族は首を垂れて聞いていた。 お金を払ってくれる事になった叔父はあまり文句を言わない、しかし叔父の材木屋で働いている一番下の叔父さんが、一番うるさくののしっていて最後に、家族全員の責任だ!と怒鳴って帰ったのが、不思議に思った記憶がある。
その夜、今後どうするかという話が家族であった。 東京の姉が、家族で出て来て、アパートでもみんなで住んで頑張ろうと言っているので、そうしようかという話もあった。 私も姉も、高校を止めて働くと言った。
工場は一時閉鎖、社員は解散。 その後一切の財産が、叔父の会社名義に変わった。 従業員がお別れに来てくれた。 私も責任を感じて、合わせる顔がなかった。 あっさりと引き上げた人もいるが、泣きながら帰って行った若い社員もいた。 やがて、叔父の会社の社員が出勤して来るようになった。 工場の大きな看板は変わったのが悲しかった。 私の仕事場になるはずの工場だったのに。 しかし、頭に同じ「池田」の文字が付いている所が、見る度に余計悲しかった。 その内に、父親は叔父さんの工場で働く事になり、お前も高校を出たら働けと言われていたが、それはなんとしても避けたかった。 私としては父親の兄弟の下に居る事が、屈辱的な事に思え耐えられなかったからである。 何しろ父の知合いには、池田家の皇太子と呼ばれていたのである。それは笑い話にしても、私が意気揚々と子供の頃から父に付いて材木を見たり工場で走り回っていた木材の教育が無駄なった。
母親は生まれて以来一度も故郷から出た事がないので東京に生きたくないと、事ある毎に言い出し、みんなで取りあえずここに居ようという事になった。 母はやがて、独立した若い人が興した木工の工場で、経験があるからと言う理由と、その彼の人助けの意味もあってそこで働くようになった。 私は、なに事もなく淡々と高校に通っていた。 ただ今までわずかだがあった小遣いは、その月からきれいに無くなった。 ちょっと違った事と言えば、倒産事件が友達の間に広がり、なんとなく孤立感が増した。 小さなバイトをよくやったが、小遣いと言うよりは、米のツケや酒の支払いとか、母親に生活費を貸したりした。 家の仕事を手伝っていた真ん中の姉が無職になり、それで学校にでも行って学びたいと言うと、親戚が東京の洋裁学校の園長に知合いがいると紹介され、住み込みで来てくれれば、学校も出してやるといわれ喜んで行ったところ、板の間に寝かせられて只の女中だったと、堪忍袋の緒が切れて帰って来た。 一番下の姉は、高校を出たら親戚の理髪店に住み込みで来て良いと言われていたのだが、倒産したとたん、そこの主人から頭の悪い子は要らないと断られ、悲しがって泣いていたが、しばらくして名古屋のスーパーに就職した。
高校卒業が近づきこのままでは叔父の会社に行かなくてはならない。何とか逃げようと考えれば、東京の大学に行くのが一番だが、私は材木の勉強ばかりしていて、学校の勉強をしていなかった。まして倒産劇のあと家の中は混乱して、父は酒に逃げ、母も生活の事で精いっぱい、私も無気力になっていて著しく学力は劣っていた。 夜は一応机に向かい教科書などを広げるのだが、関西のラジオ番組「電リク」に耳が行ってしまって勉強どころではなかった。 それでも、父も最後の子供位は学校に行かせたいと奮起、皇太子はなんとか東京に出て来る事になったのだ。 東京に出て来て、父の兄弟たちと距離を置く事が出来たのが、一番嬉しかった。 しかし、不思議な事にたいして可愛がってもらっていなかった2番目の叔父が、実家に帰ればウチの娘の「かに玉」は美味いからご飯を食べに来いとか誘ってくれ、東京に来るたびに電話くれて遊びに連れて行ってくれたりした。 でも女のいる所に行こうとシツコイのが玉にキズだったが。 ぶっきら棒のおじさんの変わりようが不思議であった。
お蔭で、今までの仲が良かった人の心変わりや、人の情けに触れたのである。 今更になって思うに、よくも故郷の家も残り、一家が離散する事もなくやって来たものだと思う。 きっと叔父など腹わたの煮えくり返る思いであったに違いない。 それをぐっと我慢して本家のため、子供たちの為だと言った事を、ずっと後になって聞いた。 後になって家も畑も返してくれたが、他の兄弟の手前そうせざるを得なかったと母に謝ったと聞いて、謝る理由など叔父には無く、別に聞かずとも、すでにみんな解っていた事であった。 叔父はどうでもよいヨタ話はするけれど、肝心な事は何も語らなかったテレ屋で男らしい人だった。 したがって、子供たちは余計に父親を恥ずかしいと感じ、また、何か辛い事がある度に、辛く当った人を恨む事よりも、そういう状況を作ってしまった父親を憎んだ。 2人の姉達は、特に母は、ひどく父を憎んでいた。 姉達はそういう母をまた憎むのであった。 それでも姉達は、父も母も最期まで看取ったのである。
母は一生父を憎んでいたが、それが、夏休みなどで時々実家に帰ると、母がちゃんと仲の悪い父と一緒に寝ていたので、私には何んだかなあという思いだった。
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出会い系、迷惑メール | - 2015/06/21
- 最近、迷惑メールが非常に多くて困っている。
キッカケは、女の人の名前でメールが来た。 私は、レコードのオーダーかと勘違いしてそれをクリックしてしまった。 それ以来、女の名義それも名前を次々と変えて付き合いませんかとメールが来る。 30件以上のメールで、こんなにモテるのかと勘違いしたい、ほどの数である。 淋しいとか、しばらく男と会ってないとか、暇とか言われると、オジサン思わずこの中には一人くらい本当の子がいてオッと思わない訳では無い。 が、出会い系のメールはそこが付け目、引っかかっている暇はない。
以前、携帯の方に出会い系メールが頻繁に来て仕舞って困った事があって、その退治方法を調べていたら、センターがあって、迷惑メールを集め撃退してくれるらしい。そこにせっせと送っていたら、ある日パタッと来なくなった。それで、パソコンでも利用したら良いかもしれないと思ってせっせとセンターに送ったのだが、一向に効果がない。
あまり効果の無さになぜだろうと思い、送られてくるメールをよく見たら、一つづつ送信元のアドレスが違う。 まあ、なんともご苦労な事である。 これではセンターに通報してもデータが蓄積出来ないのだから、証拠固めにもならないはずだ。 私もようなく理解はできた。
そうしたら従業員がノートンなどソフトを購入して来てパソコンに入れた。 ところが今度は、自社の端末が使えなくなって、元に戻した。 ノートンは無用の買い物であった。 私がいつも、セキュリティーソフト自体がもう一つの迷惑ソフトだと言っている通りである。
さて、新手の迷惑メールの面倒くささを理解したが、こういう新手のメールはどうやって撃退したらよいのだろう。 誰か教えて!
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