HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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山谷ブルース
2015/05/31

この間から、ふと先日書いた「いちご白書をもういちど」のフレーズが口をついて出てしまう。
なんでかね?私はジャズ派なのに。

それで、歌いながら思うのだが、日本のフォークはこの歌を持って終焉したのではないかと思うのだ。
ついでなので、日本におけるフォーク・ブームを考えてみた。

60年代後半、アメリカのフォーク・ソングブームがあり、それに刺激を受けたのか、わが国でも日本フォークが生まれた。
学園紛争と相俟ってはどうか分からないが、なんとなく社会性を帯びた歌が世の中で注目を浴びるようになった事も大きい。
ある意味ジャズも同様で、ジャズが学生たちに反体制の音楽だと思われたらしい。
勿論、そういう私もその一人であった。

65年頃からの話であろうか。
スターは岡林信康であった。
彼は日本のフォークを広めた人である。
少ないがヒット曲は「山谷ブルース」である。
♪今日の仕事はつらかった〜 あーとは焼酎を煽るだけ〜♪
これはは良く唄った、良かったねえ。
それからヒットはしなかったが「チューリップのアップリケ」
これも断片的に間違ったメロディーながら一緒に良く唄った。
それが発売禁止だか放送禁止だと。
何がそうなのか、今もって訳が分からないが反体制的な様子が伝わって嬉しかった。

それに、高石ともや「受験生ブルース」。
若い子が勉強もしないで聴く音楽と皮肉ったのが良かった。
新宿西口フォークゲリラと報道でも騒がれ、フォーク・ブームも絶好調。
友人達は聴きに西口に出かけた。
思えば、当店の目と鼻の先で起きた出来事である。

やや遅れ、70年になって、吉田拓郎出現。
フォーク界のニュースター誕生。後は松山千春とか。
彼らは反体制ではない、政治色は無くなり歌う対象は青春であり、青春の辛さである。
井上陽水、かぐや姫などが出て来て、フォークも洗練されてきた。
「神田川」が大ヒット。貧乏臭くい所が何とも言えず良い。
私も聴けば、即あのころに戻れる今でも大好きな曲である。
75年に「22歳のわかれ」。
そして、「いちご白書をもう一度」登場。
これで、日本のフォーク・ブームは終わったのか?
どうもおかしいと思い作曲者を見ると、荒井由美。
ああ、そうかそれならば、間違いなく歌謡曲だもの。
75年がフォークが歌謡曲に飲み込まれた瞬間だったのか?

良い歌だけど、なぜ歌謡曲風なのが良く分かった。そうだったのか。
思えば、日本フォークの時代は短命だった。10年持たなかったのか?
仕方ない、時代の流れだもの。

しかし、フォークでも人を考えさせる歌は駄目だ。難しくて。

偶にはフォークも。
https://www.youtube.com/watch?v=gx9PiBYRQ2M

OSCAR PEERTSON “WE GET REQUESTS”
2015/05/30

OSCAR PEERTSON “WE GET REQUESTS” VERVE V6-8606 (USA)

彼の人気作入荷、今回はステレオ盤で。
タイトル通り、リクエストに寄るものという様子だけあってスタンダード曲が多く、さらっと弾いて、大変に聴き易いアルバムに仕上がっている。
人気のほどが伺える。

植草甚一さんの本だったと思うが、本のタイトルは記憶はない。
ただし、その内容は記憶していて、多分間違いない。
オスカーピーターソンを語る時に、必ず出て来る二つの単語があって、それは「テクニック」「スイング」だと。
ところが、この二つの単語を合わせるとピーターソンになるかと言うと、そうは行かない。
テクニックと言うのは、とどのつまりテクニックであって、それは飽くまでテクニックに過ぎない。
あまりに器用なので、それが禍でもあり、自分の器用さに抵抗する事が出来ず、三連音符、アルペジオなどでぶっ壊してしまう。
という内容だった。

結局、確か植草さんはピーターソンを、当時の何人かの評論家やマニアと同様に、決して褒めていなかったはずで、巧すぎて、自分のテクニックに溺れる人として書いていたと思う。

昔の人は厳しいな。
大体、私の一回り以上の上の世代、70歳以上とでも言うのか、そういう人たちのジャズメンの評価の仕方は特徴があって、若い時の演奏は褒めるけど、年齢が来た時の演奏をケチョン・ケチョンに貶すことが多い。
また、ピーターソン、キャノンボールなどは、必ず上手すぎて面白くないと片付ける。
それが自分たちの、通としてのスタンスという所のようである。
理由は分からないが、彼等が食うや食わずの厳しさが当たり前の戦中・戦後の時代を生きたからで、少々の残酷なことなど何ともないからであると思う。

そこにいくと、我々から下の世代は何となく、まったりと生きて来た時代なので、残酷な事は言わない、いや、言えない。
レスターヤング、ビリーホリデイ、チェット・ベイカーだって、後期の作品だってきちんと冷静に評価をするし、また、好きでもある。
若い方々はもっとその傾向が強いと思う、優しい世代である。
それは老いて行く或いは、絶頂期から落ちて行く事を、人生としてどう捉えるかという事を解っていて、リスナーとして己の事と重ねて考えることが出来るからである。
歳を取ったヤツが駄目なヤツというなら、今の自分をどうするのか?

ジャズを聴く事は人生を学ぶ事なのである。
そういう意味では、ピータ−ソンの作品群も聴いていると、人生の流れを感じさせるものがある。
私は年齢とともに、彼のピアノが好きになった。
また、共演のベースのレイ・ブラウンの演奏も見事だと、心から思えるようになった。
使っているオーディオの変遷による所は大きいかもしれないが、何十年もジャズを聴き、己の人生も下り坂になり、ツッパリも無くなり、どうでもいいやと悟ってから、やっと分かるようになったとも言える。

いや、そこまでしなくても解る方には、解る事である。

心電図
2015/05/29

病院に行って、診察が終わり先生に「何か気になる所はないか」と言われたので、「ここのところ動悸がある」と告げたら早速、心電図を取られた。
そうしたら、何処だかの線が引っ込んでいるという。
それで、「国立医療センター」という新宿区にある立派過ぎる大病院を紹介されて、診療に出かけた。
そこで、一日中24時間の心電図のマシンをセットされた。
寝ている間も心電図だから緊張した。
夜中に余計に緊張して動悸がして困った。

でその、緊張した結果は、線の乱れた大変な心電図になっているだろうと思って、結果を訊きに行ったのだが、先生は「まあ特に異常と言う物ではありません。年齢ですし、ストレスとかあまり気にしないで、普通に落ち着いて生活して下さい」だって。

落ち着いて、という所がミソか?

要は歳だから、この位は有るよという事だった。
はあー。

ジャズの本
2015/05/28

最近のジャズ関係の本が面白くない。
雑誌の「ジャズ批評」など、もう同人誌でしかない。
金払って買って読む雑誌ではない。
書く方もお金を頂いて、書くという事の重みを知らないと。貰って無いなら仕方がないか。
この間も、ボーカルの本が出たからと読めと言われて読んだのだが、なんだが白人の女ばかり紹介して、おまけにレコードをいくらで買ったとか金の話もあって、どうでもいいじゃんと、面倒になってしまった。
そう言えば、ジャズ批評にも、アメリカでレコードを安く買ったとか自慢している評論家がいた。
安く買えがそれはそれで結構だが、それを本に書く事かと、どうでも良い事をよく自慢できるなあと感心する。
それから、どこかの出版社がジャズの教科書というような本も作ったらしいが、所詮、二番煎じの感は免れない。
しっかりと取材したのかな?力が伝わって来ない。

ホントに、考えてしまう。
これは本を作っている出版社の力の無さから来るのか、それとも人のせいでは無くて、もう、ジャズが、もはや現代に対して力を失ったという事か?
現代のジャズが果たして、かつてのジャズ雑誌を読んで興奮した時と同じような、興奮を読者が得られるかと言えば、それは、何となく無理だろうと、勝手に想像してしまう。申し訳ないが。
好きな人は居るであろうが、音楽自体も仲間内のいわば「楽屋落ち」の範疇に過ぎない気がするし。

今のジャズに関する文章は、言ってみれば、一度作られた文章から、何度も書き直している、コピーを重ねた云わば再発物と言える現状。
そうだ再発では、音にも筆にも力がないんだよな。

かと言って、昔の本ばかり読んでいる訳にも行かない。

レコードの出現
2015/05/27

今、オーディオファンの間においても、これからソフトの方は一体どうなる事かと、心配があるらしい。
私のように、レコード一辺倒で、何の心配もしない人間もいるが、不安の人も一杯いる。
新しいメディアのはずであったCDですら購入者が著しく減退してしまった今、確かに不安であろう。
これからはPCだと新し物好きは、そちらになびいているらしい。
我々の世代が焦ってCDに切り替えたように。
それで、また後悔するならば、であれば昔のレコードを買えと言いたいところである。

しかし、考えて見ると、レコードの出現というのは恐るべき時代の到来であった。
それまでは、「先進国」においては何処の金持ちもパーティーと言えば必ず音楽家を家に呼んで、演奏させていたのが、オーディオ・レコードの商品の完成により、音楽家達が失業したわけだ。
英国のロックの「ラジオ・スターの悲劇」の、ヴィデオ=テレビの出現がラジオのスターを殺したという唄。
それと同様に、1920年代にレコードが出現すると音楽家達も仕事が減った事は容易に想像できる。

そのレコードは、最初は手回し蓄音機だった。
それが戦時中には電気蓄音機が登場すると、同じ78回転ながらレコードも変化し、シェラックというインド原産の虫の死骸のような材質からビニール製に替わり、針圧もぐっと軽くなり、鉄の重針圧に向かないSP盤も生まれた。
そこで、古い技術は捨てられた。ここでも仕事を失った人が出た事だろう。

次に50年に10インチ盤のロング・プレ−イングが生まれ、33回転盤が出て来ると、映画館の為の物だったのが、急激に家庭用オーディオ機器が開発された。オーディオは恐るべきことに50年代に既に完成されていたのである。
数年後にはLPも12インチ化され、高額機器があっという間に世界中に広まった。
60年の幕開けと同時にステレオ盤の販売も始まり、大型スピーカーでなくとも、安価で素敵な音に包まれるサウンドが楽しめるようになった。
LPレコード絶頂であった。
LP時代は80年代まで続いたので、40年間は安泰だったのだ。
それが80年代の終わりには、CDが出現しノイズが無いから高音質などいうマスコミの扇動で売れ始めたと思った瞬間あっという間にオーディオ界を席巻してしまった。
レコード技術にとっては大打撃。
正にレイディオ・スターの悲劇そのものであった。

ところが、その新しいと言われたCDがわずか20年で、もう終焉という事らしい。
ある高校の先生が、子供たちに聞いた所、クラスの半数はCDを知らなかったと。
一体どういう事になるのか。

ところで、レコードが出現したという事は一体どういう事だったのだろう。
エリックドルフィーの有名な台詞では無いけれど、「音楽は二度と捕まえる事が出来ない」という事が、「いえそれは嘘です」と、反論できるようになったのだ。
録音された物は大量のコピーが作られ、また、反復して聴く事が出来るようになった。
音楽家の演奏した原本は、レコードとして世界中に配られるようになって、どこでも同じ演奏が聴く事が出来た。
演奏家の芸術としても原本は消えた。
そのコピーの数は売れれば100万枚もの膨大な数になる事もある。
本物としてオリジナルの演奏は聴かなくても、そのコピー商品は、それなりに価値をもったのである。
いや、あるいはオリジナル演奏を超えたのである。
すなわち、工業や商品が、芸術を飲み込んだのだ。
音楽の芸術はレコード無くして成り立たなくなったのだ。
生の本物の演奏は、余り意味も持たなくなったとも言える。

私はちょうどその20世紀に生き、その姿をずーっと眺めて来た。
特にジャズと言う音楽は、まさにレコードの出現・発達ともにと歩調を合わせてやってきた。
そこにはオーディオ技術の進歩もまた大きな要素であった。
その両方を、同じ時代に生きた事は、個人的に言えば大変幸せだったと思う。
大変エキサイティングな変化の時代の体験であった。

勿論それに続くロックのファンも同じ様な幸せ感をお持ちの事と思う。

思えば20世紀というのは急激な進歩の時代だった。
まあ、ココカラ先はもっと変化が激しいに違いない。
只、それが進歩かどうかは怪しい。

知り合いのクルマ「mini」
2015/05/26

知合いの車

知合いは機械関係の会社を経営している。
その彼の、かつての若かりし頃の愛車「Mini」の写真。

イギリスのMiniが好きで乗り継いだのだが、このMiniは2台目の所有車だったとの事。

そもそも、大学の受験にも全敗し受験勉強も諦め、父親の会社に就職し、働いてお金貯めると決心した所、父親が大いに喜んで、それならと買ってやるぞと、Miniを買ってくれたのだと。
最初のMiniは、白のMini1000という型番であった。
それに乗っていたのだが、その後、どうしても初期のモデルに乗りたくなり、イギリスに修行して日本で開業した人から、買い直したとか。
いわゆる、"Mini Cooper "それも初期の「MK-T」というモデルで、フロントグリルが丸いのが特徴であった。

札幌の修理屋さんから走ってきて、真っ直ぐに友人の喫茶店に行き、店の前で撮った貴重な写真だという。
しばらく大事に乗っていたそうだ。

これが写真の車である。

写真が無いと言うので、探し出したらハルズの日記に掲載したいから探してくれと言っておいた。
ようやく出て来たと言って送ってくれた。

渋谷系
2015/05/25

渋谷系という音楽が流行ったのは、バブルの頃からか。
私は当時渋谷の東急系の会社にいたので、渋谷の変遷を目の当たりにした。
かつては渋谷は、安い飲み屋と古本屋、レコード屋、音楽喫茶、映画館などがある、サラリーマンと学生の街であった。
せいぜい井の頭線と東横線の乗換駅でしかなった。
それが1980年ちょっと前くらいに新玉川線が乗り入れるようになって急に人が増え始めた。
若者が入り込んできて、バブル景気で学生にまで小遣い廻り始めると「渋カジ」と呼ばれるファッションが生まれた。
勿論、古着主体の上から下まで1万円のチープ・ファッションである。
それが目立ちたがり屋がいて、古着にまで価値を付け始め、あっというまに、貧乏臭いのに、金が掛かる渋カジも出来た。

西武系ショッピングセンターに対抗して出来上がった東急のとうきゅうの字をもじった「109」が経営的にあまり芳しくなかった所を、次第に好調になったガキ・ファッションに特化していき、どんどん渋谷らしさと言う所の女子高校生主体の街になって行った。
そういう子供目当ての男や、それらをカモにするチーマーと呼ばれる不良たちも出現。
チーマ−出身の芸能人も生まれた。
そういう光景はただ苦々しい思い出しかない。
渋谷をこんなにしやがって、という。

そこに、マスコミがちやほやした女子高校生と軽薄な音楽ジャンル「渋谷系」。
当時の事を思い出すと、ひ弱な男と、ふわふわした女という言葉しか浮かんでこない。
うだつの上がらない様子のレコード屋が急に店舗展開したりして、若者が出入りして、いったいこれは何だい?
そういう印象がぴったりの渋谷系の文化や音楽。
ダンスの音楽だって?ファッションの音楽だって?
音楽でもファッションでも、所詮つまみ食いで、騙して金儲けだけだろ!
私など、地に足の着いていない渋谷系という言葉が好きでは無い。

しかし、こうなる原因はそもそも渋谷に西武のデパートが生まれた事による。
西武の渋谷荒らしによってパルコが作られ、一遍に人の流れがNHK寄りになったのだった。ああ。


そもそもこうなったのは。
思えば松竹(?)の映画館の親父が土地を東急に買えと言ったのを、ちょうど五島慶太が不在だった事と少し相場より高かったので、部長だかだれかが適当にアシらったのがいけなかった。
どうせ、後で泣き付いて来るだろうと、高をくくったのがいけなかった。
慶太翁が帰社するやいなや烈火の如く怒って、すぐに映画館の親父の所に使いを出させたのだが、親父は「うん」と言わない。
それのその筈、すでにこれ見よがしに当てつけがましく西武の「堤」に土地を売る契約をしてしまった後だったのだ。
それからが渋谷=東急の躓きの始まり。

結局、今となってパルコも落ち目、西武デパートもパッとしなくなり、ようやく東急の逆襲が始まったが、今更遅い。
どうせ東急百貨店もパっとしないんだもの。
今になって、かつての西武の物真似のようにビルを作りまくっている姿も、見ていて気分が悪い。

関係ない話に来てしまった。オレは関係のない話の方が長いからね。

レコードショップ「GSM」
2015/05/24

午後、暇だと思っていたところに、ひょっこり来られた「若杉実さん」。
彼の職業は、えっとなんだろう。DJ?ちがうな、ライターさんか?
久しぶりに会ったので、痩せた様子にすぐに本人と解らなかったが、ニコっと笑うと、ああ本人だ。

訊けば一度書いた、「渋谷系」という音楽文化の事を書いた本の、第2弾でレコード屋の取材だと。
渋谷系などという軽薄で、一時(いっとき)のガキのフィーバーのふわふわして腰が据わっていない音楽など、当店には関係無い。
がしかし、クラブ系音楽としては、クラブジャズというジャンルがあると言うならば、ジャズのショップ自体、あながち無関係でもないので、取材を受ける事にした。

この辺りのレコード屋の事とか、知合いだった近くの店「GSM」の事など、ペラペラしゃべる。
自分の事も他人の事も、知っている事はみんなしゃべってしまう。
しゃべらないと面白くないから。きっと。
兎に角「GSM」の事を知りたいらしい。

そう言えばGSMの彼はどうしているのかな?
彼は面白いヤツで、一緒に買い付け旅行を3・4年は続けた。
言ってみれば当店の今日は、彼無くしては成り立たないのだ。
言わば恩人である。

その彼はヨーロッパ中、一切地図を持たずに電車と徒歩だけで歩き回るのだ。
くっ付いて歩く私は、そこまで記憶が出来ないので、まず街に到着するとインフォメーションで地図を貰い、行ったショップをせっせと印していくのだ。
歩いた街は例えば北から言うと、オスロ −イエテボリ − ストックホルム − 船でヘルシンキ − 船で戻ってコペンハーゲン − マルモ − アムステルダム − パリに行くか、 ベルリンの方に行くかしてコースは変わる。
そうしてあちこち放浪するわけ。
だんだん服装も汚れて来て、警察に目を付けられたり、税関で捕まったり。
タクシーなど絶対に使わないので、時間もかかるが、まるで修行僧のようにひたすら歩く。
パリの街くらいでもほとんど歩く。

一度買付に出かけて来ると、出張ったお腹は、すっかり青年のように引っ込んで来るので、ありがたいダイエットでもあった。
買付に行っている間は健康だったのだ。

パリの街などは結構の大都市だと思っていると、近道で歩くと、あれっと言う間に、隣の線の駅に着いてしまう。
私もそれでヨーロッパの街など、歴史の中では大層な場面として出てくるのだが、舞台としては意外に小さい街だという事を知った。
でも、世界史に出て来る建物が次々と現れる。
大きいと言ったらロンドンくらいか?それも東京の半分くらいの印象で、私の中では相当の憧れが、徐々に無くなってしまった。
そう言う意味では、貴重な体験だった。

彼は何しろ、着る物を持って歩かない。
本当に小さなリュック一つ、それに比べると私はスーツケースを持っている。
それだけで聖人と庶民の違いは明確である。
しかし、港のイミグレーションや駅の税関が廻ってくると、聖人の方が必ず捕まっていて、庶民の私は彼が出て来るのを待っているのだ。
いつも事なので心配はない。
彼もニヤニヤしながら出てくる。
捕まった理由は、あまりに汚いので日本人の概念に当てはまらない、と思われていたのだという。
夕方はいつもダンボール箱を漁って歩いて、思えば乞食のようなものだった。

という事で「GSM」の想い出は、買付の想い出。

ALLEN HOUSER “NO SAMBA”
2015/05/23

ALLEN HOUSER “NO SAMBA” STRAIGHT AHEAD ARS-001 (USA)

私の大好きな70年代のアルバム一枚。
作品は裏ジャケにも1973年となっている。
私がジャズを聴いて来てちょっとだけ自慢できるとしたら、こういうアルバムを発売と同時に購入出来た事である。
私のいた会社が赤坂から渋谷に都落ち?した時だから何年だったろう。
いずれにせよ74年前後の事だと思う。
新入荷としてショップの壁に飾られていた。
ジャケ写を見た瞬間、私の中に閃くものが有って、店の親父にこれは良いかと訊くと「良いよ〜」と言う、いつもの決まり文句、信用はしていないが即購入。
昔は内容がどうだか、いちいち試聴などしなかった。
家に帰ってから聴かないと本当の内容など解るはずもない。
それで、聴いたらカッコ良く、興奮してジャズ仲間に電話しまくった。
友達から友達へと広がり、あっという間の数日間の内に、店から在庫が消えた記憶がある。

あの頃は、こういうレコードの新譜一枚で大興奮する事が度々あったのだ。
私たちも若かったし、いつも鷹のような目でレコードを探していたので、そういう情報でも入ると買いに走ったものだ。
結果、気に入らないとお前はセンスが無いとか喧々諤々。
ただ、みんなジャズに飢えていた。

それで、このアルバムの事。
ジャケットは茶色一色の製造的には安上がりだが、部屋の中でトランペットを練習している真面目な姿をパステルで描いたもので、向こう側にはベッドも見える。
きっと彼の事なのだろうかと、見ていると胸が熱くなる。
絵の中にベットが見えると、それは生活苦として伝わって来てしまって、頑張っている姿になってしまい、見ているとオジサンは即感動してしまう、簡単な精神構造だから。
そこに大きく、斜め書きで「NO SAMBA」と。
さて、どういう意味かとみんなで相談したのだが、そのまんまで良いじゃないかと落ち着いた。

裏ジャケには詩が記載されている。
彼のインテリジェントの表れである。
当時でも、メンバーに知る人は居なかったが、唯一、BUCK HILLだけは知っていた。
しかし、演奏は誰が誰とかいうそんな話ではなく、もう猛烈にカッコ良かったのである。
A面の「MEXICO」だけで十分なのに、それにタイトル曲のB面の「NO SAMBA」と文句ない。
ややラテン調で哀愁漂う、ストレートな表現のナイス・ジャズ。
両面、ひっくり返して聴くようなレコードなど、そうそうない。貧乏性のマニアは別にして。
こんなアルバムをアメリカと言う国は、自費で出さないと大手は出してくれないんだねと、友人たちと驚いたのである。
アメリカの奥の深いところである。
ところで、彼はもう一枚アルバムを出した。
そちらは打って変わって、普通のジャケットだったので、ちょっとガッカリした。
だが、もちろん喜んで購入した。
家で聴いたら案の定、内容は抜群だった。
友人たちと、この人はいつかきっと大成すると話していたのだが、その後の消息はあまり聞く事がなかった。

こんなに良いのに、なんで?

猫、寝込む
2015/05/22

知り合いからメールと写真が送られてきた。

それは昨夜というか朝方、台風のような風とともに猛烈な雷があった。
雷さんだー。
という駄洒落はおいといて。

それで、猫としては相当怖かったらしく、今朝は起きて来なくて、すーっと寝たままだという事である。

猫が、猫だけに寝込んでいるというわけ。

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