HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

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ガソリン代
2025/09/13

今年の夏の暑さは尋常ではなかった。
車の運転をすると、その間中、エアコンもずっと最大で運転している。
隣の話声が聞こえないほど。

心配していた通り、あっと言う間に、ガソリンが減る。
しょっちゅうスタンドに行かなくてはならない。
これほどの事は今まで、無かった。
エアコンが壊れそう。

オマケに、エアコンの風で目が乾く。
良い事はひとつもない

けなす事
2025/09/12

私はジャズの作品をケナす事はしない。
折角 作品として作り上げたレコードなりCDなり、音楽家が一生懸命にやった結果である。
それを他人が、自分の好みに合わないからとケチを付ける必要があろうか。
ジャズマニアの多くは、いや音楽ファンの多くも、そうは思っていない。
それは、日本のジャズ評論家或いは音楽評論家と言われた人達の文章に影響された物である。
そうしなければならないと言う信者の思い込みである。

私は上品ぶらず、思い上がらず、作品を楽しみ、作品から良い点を聞き出す。
そうすると聴いていて楽しい。
音楽家の心が伝わる。
大切な事だと思うのである

中国の軍事パレード
2025/09/11

悲しい事に、鳩山元首相が出席。
なんという愚かさ。
どこまで日本を中韓の下に起きたいのだろうか。
こんな人を首相に選ぶのだから、立憲民主党など政権の座についてはいけない。
今や、自民党も危ないのだが.....

韓国も議員団が参加していていたようで、国家としてあちら寄りという事がはっきりしている。

日本はどうしようとしているのだ。

ツェッペリン
2025/09/10

レッド.ツェッペリンのレコードを聴いて思い出した。

今は昔、昭和4年に獨逸からツェッペリンという飛行船が日本に来た。
場所は霞ケ浦航空隊。
見たい一心の人が押し寄せ30万人以上の集客力だったそうだ。
しかし、それに一人だけ日本人が乗っていた事を知っているであろうか。

円地文子と言う作家がいた。
その旦那さんは与四松と人だった
この人は東京日日新聞の記者で、ベルリン特派員であったのだが、その人が乗船して来たのだった。
その後、文子と結婚したのだ。

ところで、この人は世界の情勢に明るい人で、ポツダム宣言受諾をすぐに情報を知っていて、友人に語っていたという。
それを聞いた人は「負け戦」だと悟った。
皆、己の不甲斐なさを呪ったと言う。

ドラマ「ハケンの品格」
2025/09/09

15年以上前のテレビドラマ「ハケンの品格」をNetflixで見た。
ヒットしたドラマだったので10話。その後10年以上経ってもう一度作られたのが8話。
長くて見るのも非常に疲れた。シリーズの半分くらいまではしっかり見ていたのだが、それ以下は大泉洋のセリフがウザったくて大泉洋の所は飛ばしてしまった。当時は大泉洋が人気だったから良かったのだろうが、今みるとセリフも演技も雑。

「篠原涼子」と「加藤あい」の演技は、天才社員と素人派遣社員と、上手く演じて、取り合わせも絶妙だった。篠原涼子は気合があっていいねえ。
加藤あいの疲れた時のセリフの、息が抜けるような発声がすごく良かった。
加藤あいといえば、豊川悦治との「同窓会へようこそ」の時の、死んだガールフレンドの幽霊の声の感じを思い出してしまった。
彼女の特徴が生かせる良い役が付けば、素晴しい演技ができて大した女優になったのになあ。と、今になっては遅いか? いやいや、女優人生はこれから!

面白いのは派遣が一生懸命に働き、社員は働かない、という設定であるが、私の会社員の経験から言っても、社員は本当に働かないものだ。
以前は、サラリーマンは遅れず休まず働かずと言っていたが、まさにその通りである。

あのドラマのセリフ、仕事は人生!
その通りで、人生とは働く事、働くことは生きる事なり。
どれだけ、この簡単な事が解っているだろうか?

銀杏
2025/09/08

散歩の途中、足元に銀杏が落ちている。
まだ暑い盛りなのに、と思いながら銀杏の木の上の方を見上げると。
そこにはたわわに実る銀杏の実。

もう、秋はすぐそこに。

日本の歌謡曲で.、60年代は
2025/09/07

60年代。
1960年代はアメリカのティーンエージャーと呼ばれたあの青春の絶頂期は絶対的に豊かな経済とクルマとポップス音楽である。
一方の日本はと言うと、アメリカ同様にポップスと青春と言いたいのだが、ちょっと違っていて、クルマは無いし、みんながステレオやレコードが買えるほどの豊かさは無く、せいぜいラジオに夢中になっているくらいである。
しかし、ポップス好きには、とてつもない喜びがあった。
私もその一人に入るのだが、残念ながら、高校の同学年にアメリカン・ポップスを聴いている人は私一人であった、と思う。
都会はどうであったか知らないが、東京に来て見ても、どうもそれほど変わった様子はなかった。
その内に、ビートルズが人気になるが、大騒ぎをするのは、東京の10代の女子高生たちに決まっていて、日本社会の音楽は、やっぱり舟木一夫や橋幸夫、そこに加山雄三がいて、演歌と御大の石原裕次郎というところが象徴であった。

何を言いたいかと言うと、アメリカのティーンエージャーと言う言葉で楽しんでいた時代に、日本はやっぱり舟木一夫それに御三家が牽引していたのだった。
ちょっと残念な気もするが、何しろアメリカは高校にクルマ通学もある訳で、どうしようもない経済格差と日本の法律と社会の規制で、その差がとんでもなく大きかったのだ。

その内にフォークブームがやって来るのだが、日本のは所詮フォーク歌謡だったのだもの。
だが、それも今となったら、意外にも良かったと思える。
歌は世につれ、世は唄につれ。

橋幸夫死去82歳
2025/09/06

60年代、日本の歌謡界の一人の重要人物である。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦と「御三家」と呼ばれたが、西郷輝彦と橋幸夫の二人が亡くなった。
残った舟木は、自殺未遂やらで短命かと思いきや健在で、人生は分からないものであるが、いずれにせよ一時代は終わっている。

1960年17歳、ビクターからデビュー作「潮来笠」が大ヒットでいきなり演歌歌手として大人気。だがすぐに62年吉永小百合と「いつでも夢を」が、演歌から青春歌謡で空前の大ヒット、変幻自在な歌手になった。
だが、紅白ではデュエットしなかったというのだが、私は当時テレビでが、紅白を観たのだが、一緒に歌っていたような記憶がある。勘違いであったのか......
噂によると、二人は付き合っていたが紅白の頃には既に終わっていて、共演を嫌がったという噂もあった。
70年代から人気も低迷の感があったが、世の中に運の良い人はいるもので、漫才のボンチのおさむちゃんが、「あれー」で物真似をし、それが逆に復活となった。

私が新宿で遊んでいたころ、ちょっと怖いお兄さんから「橋幸夫の付き人のような事をしていたが、乱暴で何かあるとすぐに殴る、それも思いっきり腰を入れて来るから、参ったよ」という状況だったらしい。
当時の演歌歌手など、みな反社の下にあったのだから、そんなものであろう。

しかし、それからが彼の遊泳術か才能か、介護やら出版やらで、立派な文化人になっていた。
ヤクザな時代にはヤクザで、文化の時代には温和に。
中々できない事である。

古い映画など
2025/09/05

古い映画やドラマを見ていると、カッコ良くて、女優なら美人で魅力があり、それなりに良い役をもらっているのに、なぜか、その後の活躍が見られない役者が数多くいる。

きっと、活躍の場を広げて行く事が出来なかった、その困難さは言うに言えない理由はあったのであろう。
残念な気がする。

それに比べ、有名になっていった俳優たちは、信じられないような強運と、実力に恵まれた人たちなんだなあと、しみじみ思う。

私がしみじみと思っても仕方ない。
大変な世界だ。


GENE KRUPA “The Gene Krupa Sextet #3”
2025/09/04

GENE KRUPA “The Gene Krupa Sextet #3” Clef MGC-631

最近はあまり見なくなった、ちょっと珍しいアルバムで、ジーン・クルーパのリーダー作。
テディ・ウイルソンの静かなピアノから始まるのも素敵。
ノーマングランツが集めたメンバーは、Gene Krupa(d), Bill Harris(tb), Charlie Shavers(tp), Eddie Davis(ts), Ray Brown(b), Teddy Wilson(p)というセクステット。
当然、聴く前からワクワクする。
ラベルに記載はあるが、裏のライナーにはBallad Medleyとしか書かれていないので書き出す。
1.,Dancing In The Dark(Teddy Wilsonフィーチャー), 2. The Nearness Of You( Bill Harrisフィーチャー)、3. You Are Too Beautiful(Eddie Davisフィーチャー)、4.Tenderly(Ray Brownフィーチャー), 5. Autumn In New York( Charlie Shaversフィーチャー), 6. Who's Rhythm というA面の順番である。続きのB面はライナー記載通り。
みな実力通りの素晴らしい演奏。言う事無し!
彼は、決して派手に叩き過ぎないが、デキシーからの人なのにどこかモダンな雰囲気も漂い、聴いていて決して古臭くない。
良いねえ!と唸ってしまう。

彼はモダンになる以前のジャズドラマーとして、長い歴史を持つ。
大体モダン・ジャズの演奏家達は1920年代からの世代になるが、彼は1909年生まれであって、当然スイング世代でもある。
そして、何より彼がジャズドラマーとして記憶にとどめるのは、あの1938年ベニー・グッドマンのカーネギーホール・コンサートにおいて、中心的メンバーであった事である。
あの時の象徴的な演奏Sing, Sing, Singは、まず彼のドラムの響きから幕を開けたのである。その後の快演は、何度も書いて来たので、止む無くここでは省く。しかし、開始のドラミングの音は私の脳裏から死ぬまで離れないであろう。

彼は独学でドラマーを覚え、高い能力で当時のルイ・アームストロング、ベイビー・ドッズ、ズティ・シングルトン、エディ・コンドン、レッド・ニコルズなどの有名バンドを渡り歩き、デキシースタイルのドラマーの第一人者として名を馳せた。そして憧れのベニー・グッドマン楽団に誘われ、やがて38年のカーネギーホールの世紀のジャズコンサートに出演を果たす。所が彼はカーネギーホールのコンサートの後、間もなく退団する。
折り合いは良くなかったし、自身の楽団を作る為である。
彼のディスコグラフィーを調べると、30年代から40年代初めまで、非常に仕事量が多かった事が伺える。

さて、もう一つ話、彼は1943年、大麻所持で懲役刑を受け、オーケストラは解散した。話を聞いた元妻のエセルは、離婚で貰った慰謝料10万ドルの小切手をそっくりそのまま支払い助けた、という噂があった。
こういう話も、また彼に好感を持ってしまう。

*販売済です

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