HAL'S DIARY
オーナーのひとりごと。買付けの裏日記など。
きまぐれに更新しています。

前ページTOPページ次ページHOMEページ

シティーポップのブーム
2021/08/18

友人が来て言うには、若者のシティー・ポップ・ブームはハルズレコードから始まったと言うのが定説だと。嬉しいねえ!!

「最近のシティー・ポップ・ブームと言うのは、YOUは何しに日本へ!というTV番組において、新宿のジャズのレコード屋で大貫妙子のレコードが見つかった事から始まった、と言って良い。」と評論家の先生がラジオで言っていたぞ、と。

確かに、シティーポップは山下達郎人気などあってジワジワと来ていたのだが、急激な上昇が見られる人気は、私がYOUの番組に出たあの事件の後から、正に爆発だったように感じる。
ついこの間も、初めて来た客の様子がどうもおかしいので「うちはジャズのレコードしかありませんよ」と声を掛けると、「そうなんですね、日本のレコードは無いんですね」とがっかりしてお帰りになった。
ウチに来れば日本のポップスのレコードが買えると思っていたらしい。
我が店も罪なことをしたものだ。

営業的には我が店にはほとんど影響も無かったのだが、HMVなど大貫妙子の版権を持っていたらしく、既に5回以上も例のレコードを再発したようで、それは儲かったことであろう。
それがウチには全く何の恩恵も無い所が、なんとも可笑しい。
いや、だからそれ故に、余計に誇らしい。

ジャズの店からシティポップのリバイバルの起爆点だったとは。何しろWikipediaにも話が出てくるから。
面白いね。

三回目のあの番組の撮影の時、 マーヴィン・ゲイ の「ホワッツ・ゴーイン・オン」とコード進行が同じだと、リモートの画面の向こう側でスティーブさんがギターを弾きながら歌ってくれ、それが徐々に「くすりをたくさん」に歌と演奏が移って行ったのは感心してしまった。

それが放映されないのが残念だった。


最近の日記
2021/08/17

ちょっと我が日記を見直してみると、もう人生が終わりに差しかったような塩梅である。
枯れたと言いばまだ良いが、既に終わりに掛かっている。

時代劇の「三屋清左衛門残日録」ではないが、「日残りて昏るるに未だ遠し」という感じか。
と言う事は、人生終わりに未だ遠いという事か。
残念じゃ。

 

外出禁止で思う事
2021/08/14

オリンピック期間中、コロナ感染者数が4000人を超えた。
政府は焦って、またまた国民に外出禁止令という自粛を指示。
しかし、もう無理ではないか?

そもそも、普段の生活においても、東京などかなりの人々の住宅事情は決して余裕があるものではなく、かなり狭小なアパート・マンションに住んでいるのが実態である、
以前、休日の過ごし方について数人と話した事があるが、皆いう事は、日曜日など一日中、部屋にいられない。
部屋が狭いので、イライラして、どうしても出かけてしまい映画を見たり、盛り場など歩いたりしてしまうと。友人を誘って飲んだりする、と。
それが生活の実態なのである。

それを無視して、外出禁止はとても国民の気持ちに寄り添った物ではない。
尾身という方も、上目線で外出を控えろというのはいかにも酷い事を国民に強いている事を理解するべきだ。
人の孤独感を考えもしない政府はあまりに惨い。
自粛も初期の内はまだしも、すでに1年半経過、部屋にいろと言われても無理というものである。

更に政府はオリンピックというイベントを行ったわけだが、都民だって自分のイベントをやっても良いのではないか、という結論に至ったのも不思議ではない。
政府は良いけど、都民はダメはちょっとね。
酒も禁止され、どこで息を抜けというのが。
私だって、徐々に投げやりになってくる。

今日は休みだが.....
2021/08/11

今日の朝食の際、ふと思い出して「今日は、僕は休みだからね」。
と言ったところ、家内が泣き出して、「なんで、今日は私はやりたい事があったのに、何で休むのよ」だと。

仕方ないので、まあ程々に謝った。
家内も日本の主婦で、亭主元気で留守が良い、という事を考えていたんだね。
私もピンピンコロリを目指さないといけない。

2021/08/10

夏は見通しの良い高速道路を走ると気持ちが良い。
目の前の、遠くの青い空にぽっと浮かぶ雲を見るのが、何とも気持ちが良い。

今朝は、雲がやや多めだったのだが、なんと丸い穴の開いた雲があった。
周囲はやや厚めに雲があって、まるでドーナツのようであった。

写真ではちょっと表現が難しかったが、ドーナツを斜めにしたような感じで、なかなかであった。

家のカエル君
2021/08/08

朝、猫を抱いて外に出て見ると、門の外でカエルが車に轢かれて死んでいた。多分、我が家に住み着いたカエルであった。
夜、大雨が降ったので、つい道路に飛び出したものと思われる。

数か月前から玄関脇に住み着いているカエル君は、いつも植木鉢の辺りに2匹いたのだが、今朝からは一人ボッチになってしまった。

家内が死んだカエルをどうしようかと言っているので、私は「ほっといて良い、その内にカラスが来て、後片付けをしてくれる、ここでもチベットと同じで鳥葬だから」と言ったものの、30分後に見に行ったら、ちょうどカラスが咥えて電柱に舞い上がった所であった。

チリ取りに掃いて捨てる等という野蛮な事をしなくて済んだ。
これこそ自然の葬儀、有難い事であった。

広島 原爆投下された日
2021/08/06

義父、唐沢勲が原爆に遭った事は以前、日記に書いたが、どうもはっきりしないところがあり、これは何とかならないかと思っていた所、義父が書いた記録が見つかったので、記しておこうと思う。

私は昭和19年7月、広島鉄道局、総務部長として赴任した。
昭和20年に入り戦況は益々悪化し、物資はいよいよ欠乏してきた。防火訓練、学徒動員が行われ婦人・子供の強制疎開が始まり、私も家内と3人の子供を中国山地の大朝部落の民家に疎開させ、自分ひとりで守衛夫妻の世話になることになった。
空襲は日増しに激しくなり、呉の軍港施設が艦載機の波状攻撃を受ける様子を宇品の防空壕の入り口に立ってまざまざと遠望しながら、いつこちらが空襲の目標になるのかと暗然たる事もあった。
戦況は明らかに悪く見え、どんな形に敗戦が展開していくか見当もつかないが覚悟はした。

8月6日は朝から晴れ上がり、暑い一日は始まろうとしていた。
いつもなら宇品へ向かって登庁する8時だが、その日、駅に会議があり私は白島の官舎の縁側で、ワイシャツ姿でその日の資料に目を通していた。
その時、空襲警報ではなく警戒警報がなり.敵機が一機空中を旋回していると報じていたが、間もなくその警報も解除になった。
そしてその解除の直後、空中にピカッと稲妻の如き閃光を感じ、次の瞬間、砂を左顔面に打ちつけられたような刺激を感じた。
ガラガラと物の崩れる音と同時にあたりが急に暗くなった。
私は思わずその場に身を伏せた。
だが何事も続いて起きない様子なので急ぎ庭に走り出て防空壕に飛び込んだ。
壕の中でぢっと耳を澄ませていたが外は静まり返って物音ひとつしない。
そのうち「部長さーん」と私を呼ぶ守衛の声がかすかに聞こえたので壕から出て、裏木戸を開き通りへ出た。
そこに官舎の同僚やその家族が「どうしたのでしょう」「怪我はありませんか」と続々集まってきた。
互いに家の破壊状況や怪我の有無を確かめあった。どこの家もつぶれてはいないようだが、戸障子は吹っ飛び畳、床は滅茶滅茶に破壊されていた。多くのひとが手足に、顔に怪我をし血をしたたらせている。私は左顔面が火傷しているという。裸足で硝子を踏んだと見え、足の裏が相当大きく口を開けている。
管理部長の磯崎君は顔、首あたり相当硝子を叩きつけられたらしく、血に染まっている。
元気そうな者をあちこち情報集めに出したが、「橋が落ちて駅へは連絡が取れない」「火災があちこちに起きて、どんどん広がりつつある」と言う報告が返ってくる。
評定の結果、私と大森施設部長は可部線の可部駅まで徒歩で行き、そこで情報を集め連絡を計る。
管理部長の磯崎君は官舎の全員を引率し、予め避難場所と指定されている学校に向かういうことになった。
脚を打撲して杖にすがる大森君と、足の裏に怪我をしてこれまた杖に頼る自分と二人、夢中で可部駅を急いだ。途中、半裸で火傷をしている兵士や、荷物を背負い、手足を血に染めた人々が何かわめきながら慌しく行き来していた。

可部駅は健在で宇品との連絡も取れ、傷の応急手当も受けることが出来た。
宇品の局も破壊され広島駅、鉄道病院、その他多数の鉄道施設、官舎も焼失している。仕事はまず生存職員の点検から始めねばならない有様である。私は白島の官舎が焼失したので、焼け残った甲斐の人事課長の宅に身を寄せ、そこから広島駅構内の客車の中に移動した局に出勤した。
顔左半分と左手を火傷して右足裏裂傷というので病人扱いになり、周囲のいう事を聞き、夕方は早く切り上げ宿舎に引き上げ静養に努めた。
「駅長さん帰って休んでください」と声をかけられるのだが、職員が管理局の部長以上を面倒がって駅長と呼ぶ。
そんな中、長崎の被爆を聞いた。
それらが原爆とは後になって教えられた事で、当時は誰に聞いても正体は分からなかった。
友人の商工省から中国総監部へ来ていた並木君の如きは、当日は何の被害もなく元気に任せて市中を飛び歩き大活躍をしたため、数日後から原爆症を起こし、髪の毛が抜け始め、白血球が激減し遂に不帰の身となった。
当日に元気で活躍した若者は皆同様の目に遭ってしまった。

10月になり原爆の洗礼を受けた我々は後退した方がよかろうということになり、局長の満尾氏をはじめ広島の地を離れることになり、私は新橋鉄道管理部長として東京へ戻った。
その後、火傷も順調に治り色もなくなった、酒を飲むとぽーっと色が黒くなるので原爆記念だと威張っていた。

フジテレビの不始末
2021/08/05

今回の五輪で、フェンシングの団体、日本選手金メダルの写真に、事もあろうか、一人韓国人選手に入れ替えて放映したフジテレビ。
悪質極まりない。
とても悲しい出来事であった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/361d99f2d4a5fca920c9360cf9c4ccccbdf25080

そう言えば、2011年 フィギュア世界選手権において、東日本地震の被害に対する激励のメッセージとしてロシア側の計らいで特別なイベントがあった、所が何を考えたか、そのフジテレビ、その間放映を止めてしまい、キムヨナ特集にすり替えた事件が発覚。
これもまたフジテレビであった。
ロシアには誠に失礼な、また日本には国民を馬鹿にした、まさに不当な放送として悲しい事件であった。
なんというマスコミであろう。
悪い放送局もあるものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=Nr7zgdmKrwg

ELMO HOPE “HIGH HOPE”
2021/08/04

ELMO HOPE “HIGH HOPE” BEACON LP # 401 (USA)

さても、さても レア盤である、これぞ幻の名盤。
ほぼ同一会社と思われるCELEBRITY レーベルから、双子のようなもう一枚のアルバムHERE’S HOPE (LP#209)というものも出されていたのだが、かつて私など50年の経験を持つコレクターでも本物など一度も見た事はなかったのである・
そんな頃70年代であったかアメリカ?から再発盤が入ってきて、大騒ぎで購入したものの、冴えない音で、大いにがっかりしてすぐに売り飛ばしてしまった。
しかし、こうして改めてオリジナル盤を聴いてみると、Celebrity同様、音楽の出来が違っていてグイグイ来る演奏に脱帽、大いに満足である。
いったい何年振りに聴いたであろうか?

エルモ・ホ−プという人のアルバムもコレクターに取っては大変厄介な作品ばかりである。
何しろほとんどが幻の名盤と言っても良いほどのレア盤。
まず、53年初レコーディングの NEW FACE NEW SOUND (BLUE NOTE 5029)はトリオ名盤、
続く54年同社のQUINTET(5044)は脚立のジャケでなんとヴァン・ゲルダーの愛犬が一緒に写っているので、写真の価値としても跳ね上がる。
55年のMEDITATION(7010)はPrestigeに移動して、非常に珍盤で水色の上品なジャケである。
同じく55年HOPE MEETS FOSTER(7021)は、かつてセカンドのジャケットであっても大変な高額盤
次の56年INFORMAL JAZZ(7043)は、収録の人気曲「ポルカ・ドット・ムーンビームス」を集録しており、大傑作の呼び声高く、滅多に出ない上に大変な相場である。
と、ここまでデビュー作から順に並べただけで、とんでもない金額である。
というマニア垂涎、幻の名盤のジャズメン代表でもある。
CDマニアや初心者には全く縁のない、レコード・マニアそれも原盤マニアのための作品群なのである。
という話は置いといて、この作品。

61年の録音というのだが日にちは不明で、先述の通り片割れがもう一枚Celebrity(209)レーベルから出されている、しかし、社名の書き方が違っているだけで、異なる写真なのだがジャケットの体裁はほぼ同じで、かつてはどちらが再発だのどうのと大いにコレクターを迷わせた。
面白い事に演奏時間が短い。10インチにでもしようと思ったかのような、或いは一つのアルバムにしようとしていたのを、お金を出した人が二人いて途中喧嘩別れになり、2枚になってしまったのであろうか?大いに想像したら良かろう。興味深いところである。

さて、作品はメリハリあるコロコロとした音の運びで、BOPピアノの実にパリっとした良い演奏である。
幻の名盤&廃盤としていささかも落ちる事はない。
あの56〜60年頃の、ハード・バップのアルバムそのもので音の事は言うまでもなく、ジャケ写のほうも スタジオでのショットが得も言われぬ風情があり、コーティングがあって、そのデザインの渋さもあり、詫び寂びが感じられいかにもオリジナル・コレクター泣かせである所のレコード然としていて、見ていたら私も欲しくなってしまった。再発では良さが伝わってこない一枚であった。

(売れてしまいました)

JOHNNY RICHARDS “WIDE RANGE”
2021/08/03

JOHNNY RICHARDS “WIDE RANGE” CAPITOL T885 (USA)

昨日、ビル・ホールマンのアルバムの事を書いたのだが、それで他のビッグバンドの良いアルバムは無かったかと思って探してみた。
探すとケントン楽団が思い浮かぶ、幾多の優秀なバンドがあるのに、なぜかケントン楽団ばかり頭に浮かぶのだろうと不思議な気持ちになったのだが、やっぱりケントン楽団は優秀だったなあ。
あのバンドで良い働きをした人は他にも沢山いたはず、と思浮かべてみたらちょうど目の前に一枚のアルバムが!お、これじゃ。

なんとも気持ちの良いビッグバンド・アルバムである。
メンバーには、ジーン・クイル、フランク・ソコロー、ハンク・ジョーンズ、ジミー・クリーブランド、等錚々たるジャズメンが揃っている。
50年代の長い期間スタン・ケントン楽団でアレンジャーとして幾多の仕事をこなした。
またも書くが、あの仕事のキツイ事で有名なブラック企業楽団のケントン楽団に本当に長い期間いたのは、余程大切にされたか、根性があったのか?
いずれにして大した男である。

ジャズメンは功成り名遂げると自分のビッグバンドを持ちたくなると言うけれど、正にこの人もそんな感じであった。
やりたい事をやったのであろうか。
実力者だけに、アレンジも中々凝っていて、サウンドは煌びやかである。
洗練された立派な演奏なのである。
是非、聴いて頂きたい。

彼は50代で病で亡くなってしまった、もうちょっと生きたら、もっと沢山の作品を残しただろう。
人間、長生きが良いとは言わないが、もうちょっとだけでも生きたら良かったのに。

前ページTOPページ次ページHOMEページ

 Copyright 2025 HAL'S All right reserved. Initial up at 2001